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カメラノートスペシャルを6年近くやっていてすっかり忘れていたテーマがあった。ロシア製のカメラとレンズと言うよりもソ連製のカメラとレンズの素晴らしさである。
ソ連軍がドイツの主要な街を占領してそこで作られていたコンタックスとかカールツアイスのレンズの刻印を打ち直してソ連製のキエフにしたわけであるから言い方を変えるとこれは逆の意味のOEMなのである。
1975年の夏に東ベルリンにソ連製のパノラマカメラを買いに行ったのである。当時の値段で東ドイツマルクで750オストドイツマルクだった。西側と東側の経済の力の差が実際には1対3なのであるから250西ドイツマルクで優秀だソ連製のパノラマカメラホリゾントを手に入れたことになる。
チェコスロバキアのカメラ雑誌に数点の日本のスナップショットを掲載した。為替管理の関係で当時のチェコの通貨は西側には持ち出せないと言う原則であるから5000円ほどのチェココルナをプラハの中古カメラ屋さんで28ミリのソ連製の広角レンズに変えたのである。これが私にとって重要な意味を持つことになるとは手に入れたときには想像もしていなかった。
1958年のブリュッセルエキスポで2台だけ生産されたライカM3をしのぐ高性能レンジファインダカメラコメットに触った話。 ブリュッセルの万国博覧会のチェコスロバキアのパビリオンと言うのは今はもうないと思うけれども、モルダウ川の北側の高台の上にあってそこでプラハの古い友人Pと何回か食事に行ったことがある。
ソ連製カメラはスパイカメラの先進国であった。
ソ連製1000ミリの反射傘でウィーンの建物のオーナメントを1000ミリで撮影。しかも手持ちですよ。
2009年レニングラードの雑誌の取材で長年使ったレニングラードカメラをレニングラードに持っていった話。
日本では最終的にソ連製カメラロシア製レンズのブームはきたのであるが、それ以前のソ連製カメラに対するカメラ人種差別の状況にはひどいものがあった。
ハッセルブラッド1000エフのコピーである1連のサリュートシリーズを持ってミラノに行ったらファッション写真を撮影中のミラノのカメラマンが感動してロシアハッセルに政治的立場を変更したと言う凄い話。
2月の寒さ厳しいモスクワに蚤の市でソ連製カメラを買いに行った話。