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チョートクのカメラノート📷🎥📹

カメラで本気出す。カメラに本気出す。ついでに写真芸術にも本気出す。2001年5月からスタートしたチョートクカメラ日記です。webマガジンは毎月定額1000円。単品で買うよりもかな…
カメラの過去現在未来のトレンドをお知らせします。毎日更新。毎月30本から31本読めます。頼りになる…
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#ニコン

名前はサイモンニコン9/26(土)

アメリカのケープカナベラルロケット発射サイトで、1000ミリのレフレックスニッコールにニコンSPのモータードライブ付をつけてポーズしている。サイモンニコンさんである。

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昭和30年代会社員の月収と同じ高いファインダー3/6(日)

一眼レフが登場する前はカメラのアクセサリーファインダーは非常に重要な道具の1つであった。アサヒカメラが毎年やっていた向ヶ丘遊園あたりのモデルさんの大撮影会が終わると会場のあっちこっちにユニバーサルファインダーが落っこちていたそうである。

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ニコンカメラの赤本1962を見てこのレンズのことを思い出した9/9(木)

今ではズームレンズは撮影の道具と言うよりもカメラに組み込まれて大昔からあったように思われているが50年前までまだズームレンズは夢のレンズと呼ばれていた。当時の言い方を変えると連続的に焦点距離が変わると言う事はそこに無限の数のレンズが内包されていると言うような書き方をした。確かに間違いではないのだけれども実際にズームレンズを使ったときの感覚はこれとはかなり違うのは言うまでもない。

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コンタックステッサの1番最初のロットのレンズをニコンS3につける楽しみ5/1(土)

カールツアイスのコンタックスを代表するTessar5cmは1932年に登場した。製造番号は1,270,000台からスタートしている。だからこのレンズはごく初期の製造である。

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ニコンがクラシックな一眼レフの修理サービスを始めたことに関して考える2/14(日)世間はチョコレートをあげる日

確か2年ほど前にも同じような修理サービスをニコンが行ったことがある。ニコンの関係者から聞いた話だがかなりの修理依頼があったそうだ。しかもその修理代は決して安いわけではないのにたくさんの需要があったそうだ。

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さようなら、ニコンの銀座 🐭10/17🐭

17日(土)に銀座ニコンがクローズする。ショーケースに何も入っていない。1969年の8月に私は最初の個展をまだ松島眼鏡店の3階にあった銀座ニコンサロンで開催したのである。まだ日大写真学科の4年生で記録によると写真学科在学中にニコンサロンで1番最初に個展を開催した人間であったらしい。

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D200を使いこなす🐭4/26🐭

   20年位前にデジタルカメラマガジンで仕事をしていた時にこのカメラの紹介をやったことがある。対談の相手はなぎら健壱さんであった。なぎらさんはその前からずっと知っていたのであるが真面目にカメラの対談をしたのはこの時が初めてであった。知り合いの編集者から聞くとなぎらさんと言う人は結構デリケートで対談の最初の10分間位は緊張しすぎて面白くないから慣れた編集者だと最初のテープの10分間は聞かないのだそうである。

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製造番号609系統のNikonが好き🐭3/14🐭

カメラの製造番号に固執するなどと言うのは古い人間であるが、私は古い人間だから別にそれを隠したりはしない。最初に手に入れたニコンとか最初に買ったライカの製造番号は今でもちゃんと覚えている。ニコンカメラに関しては1番最初のレンジファインダーのニコン1型が6090001であった。これは日本独特の天皇制を基盤にした年代の数え方で昭和15年は2600年であった。その9年後に登場したニコンなので皇紀2609年なのであるが頭の2はカットして609と設定してこれを1番最初のニコンの製造番号に

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ニコンSPのレンジファインダーの事🐭2/12🐭

国産のレンジファインダカメラの中で最高の性能と言われているSPである。私がこのカメラの存在を最初に知ったのは10歳の時だった。父親がアサヒカメラを定期的に購読していたのである。今思っても不思議なのだが当時はカラーページが必要であったにもかかわらずこの新しいカメラのレビューのファインダーの見え方と言うのにはからページが使ってあった。そこに写っていたのは日本のきれいな風景のカラー写真なのである。

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ニコンSPのフロント10 0のイラストにしびれた時代があった🐥12/3🐥

1950年代後半のニコンの広告が好きである。それもニコンの会社が出した広告ではなくてカメラ雑誌の後ろのほうに出ているカメラ販売店などが使っているニコンの画像が好きなのであった。年配の人は未だに記憶していると思うがそれはレンジファインダと一眼レフのイラストであっていずれもカメラのアングルがフロント10隊0と言うつまり真正面からのカメラアングルなのである。

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❤️我楽多屋さん経由でニコンカメラ人類さんからいただいたものマガジン😎 10/24

ガラクタ屋さんが創設30周年と言うおめでたい時期である。2ヶ月ほど前にガラクタ屋さんでお目にかかったニコンカメラ人類さんがいた。ニコンの最高級のデジタルカメラとフィルムカメラのそれぞれの一眼レフを下げていたような記憶がある。そーゆー下げ方は普通は格好が悪いからやらないものであるがこのニコンカメラ人類さんはそういうところに頓着しないような感じがしてそれに好感が持てた。

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新しいカメラを買ったら嬉しくてそれを枕元に置いて寝るようなデジカメってないよな🐥8/9🐥

カメラを買うと言う事は人生の中で非常に大切なビッグイベントであったことをわれわれはとっくに忘れている。これはキャノンのレンジファインダの最終モデルであるが、当時の価格表を調べてみると1番明るいレンズをつけたセットが当時のお金で100,000円するのである。その時代の総理大臣の給料が100,000円であった当時の価値観である。要するにとてつもなく高価なカメラなわけです。そういうカメラを手にしたら嬉しくてやはり眠れないから枕元に置いて寝ると言うのは正しいと思う。

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ニコンD200の同志🐥6/23🐥

15年前のこのニコンのデジタルカメラが気にいっているのである。元箱から取説からすべてのものがついて確か17,000円であった。15年前に定価が200,000したのだから大変なプライスダウンである。それで満足して使っているのであるがガラクタ屋さんに行ったら常連のお客さんがすごいニコンを二台持っていた。その左がD200である。 15年ほど前のデジタルカメラを使うというのはそれなりにカメラの哲学が背景にないとできないことではないかと自負している。普通のデジカメファンならはしにもかけ

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高性能で多機能化が写真が上手くなると言う共同幻想。     ニコンのミラーレスフルサイズZがひとみAFを搭載していないのが好きだったのにファームウェアで使えるようになってしまった。じいさんの好きな撮影会向きの場カメラになっちゃった🐥6/11🐥

25年間偏屈なカメラ評論家をやってきたわけである。私の経歴を見ると写真家 、カメラ評論家と紹介されていることが多い。フィルムカメラ時代のカメラ評論をかなりやってきたので私がタッチしたデジタルカメラと言うのはまだ画素数が350,000画素の黎明期のやつだった。それで当時は3,000,000画素あればもうそれ以上はいらないと書いていたのである。

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