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私が人生で1番最初に自分の写真をカメラ雑誌に掲載したのは1966年の12月号の月刊フォトコンテストであった。あの時は嬉しかったな。だから私が最初に使ったズームレンズはタムロン200ミリから400ミリなのである。そのレンズは今でも所有している。このレンズを手に入れる時ニッコールオート200ミリにするかこのレンズにするか迷ったのである。ニッコール200はタムロン200 400よりも高かった。
若い頃は250枚撮影できるライカレポーターを買うのが夢であった。これはとんでもなく高いライカなのである。アメリカからそれをようやく手に入れた時は非常に嬉しかったがその直後にデジタルカメラが実用化して1度に250枚撮影できるなどというのは誰も驚かなくなってしまった。適当な大きさのメモリーを入れれば5000枚でも10,000枚でも自由自在に取れるのである。
ヤシカカメラと言うと最初は2眼レフからスタートして売れに売れたカメラメーカーである。その後一般向きの絞り優先のヤシカエレクトロ35を出してこれがまた大ブームになった。もう一つは1970年に潰れかけたカールツアイスに頼まれて出したコンタックスRTSである。レンズは富岡が作っていてこれがまた人気になった。今では信州中野でカールツアイスが作っている。それで面白いのはコシナの小林さんにベッサアールのプロモーションの手伝いで最初にお目にかかったとき私は彼の前でいきなり預言者の感覚が私に
iPhoneができてまだ10年位か。iPhoneは3型から使っていて5型を使って6型を使って、最近家人がアンドロイドに乗り換えたのでiPhone SEを譲ってもらってその写真がこれである。10年以上前にオリンパスの手伝いをやってオリンパスの諏訪工場に行った時に電車の中にiPhone3を忘れてきた。中央線の終点の駅がなんというところか知らないがそこに問い合わせたら、どのような特徴のあるiPhoneですかと言うので朝日新聞のシールが貼ってありますと言ったらすぐ特定できて着払いで佃
我楽多屋の二代目さんは優秀な写真家である。天才荒木とか森山大道は人間国宝になって光が輝かなくなってきたが、本物の写真家と言うのは職業写真家ではある事は必要でなくて街に隠れているのである。二代目さんもそういう人であって私が評価しているのは写真家としての彼の命なのである。だから異常なタイガースファンであるとか、カラオケの発表会にうつつを抜かしているとか、ファミチキ中毒であるとか、ガッキーにふられたとか、偏屈者のカメラ屋のオヤジであると言う事は私には全く関係がないことだ。
四方八方に自分は「歩くユニクロ」であると公言しているので、何時も同じ格好をしてい ても、投石を受けることはない。 しかし歩行するのが商売なのにもかかわらず、カメラは売るほど持っているのに靴は「その日暮らし」であることが目下の自分の人生の諸問題の中の最大の問題点だ。 その問題とはこうである。 だいたい2月おきに、都内某所でかかとの減った靴をはいたまま行く靴店があって、そこ でF1のピットみたいに「タイヤをはきかえて」即時に再発進するのである。
エイ出版と言う出版社からずいぶんたくさんカメラ関係の本を出してもらったが会社を整理してしまってなくなってしまった。長年お世話になった日本カメラさんも同じであって会社を整理してしまってなくなってしまった。昨年は長年の歴史のあるアサヒカメラも会社はあるけれどもカメラ雑誌はなくなってしまった。寂しい時代ではあるが時代の趨勢と言うことであってオンラインでこのようにいろいろやっていられるのだから紙の雑誌はそれほど必要性を感じない。残っているカメラ雑誌は○○みたいなものばっかりだな。いい
中学生から高校生の頃に8ミリカメラに凝ってかなりたくさんフィルムを消費した。高校の遠足などにも持っていって記録映画を撮影してそれを高校のホームルームで上映して得意になったりしていた。その時使っていたのは当時の最高級機であるArcoメカニカと言うやつである。素晴らしいマシンであった。ところがその頃スイス製の気になる8ミリカメラが登場した。
2年ほど前にガラクタ屋さんで手に入れた1949年生のソ連製のジュピターである。一緒にシャッターの壊れた1949年生のロシアコンタックスキエフがついていた。兄歩に詳しい人はご存知の通り1945年にドイツがソ連軍に接収された後にドレスデンで仕掛け部品のコンタックス仁方からOEM製品みたいなものでコンタックスからキエフに化けたカメラが少数作られたのである。
戦後に作られたレンジファインダの高級カメラによく似たスタイルのカメラと言うのはコレクターの対象になる。1番有名なのはアイレス3Cと言うモデルでこれはライカM3にそっくりなのである。レンズは45ミリの素晴らしいのが付いていてこれもズミクロンとほぼ同じ性能である。しかもレンズシャッターでレンズ交換ができないからこちらの方がしっかり使い込むことができる。
昭和18年であったか岩波書店から出した永井荷風の本であるが随所になかなかいい写真が含まれている。断腸亭日常によればその直に断腸亭は出入りのカメラ屋さんから最初ローライコードを買ってしばらくしてからそれをローライフレックスの3.5テッサーがついたレンズに買い換えている。
1947年に登場したコンタックスの最初の一眼レフカメラがコンタックスエスであるがそこから進歩したエム42のレンズマウントを持った一眼レフカメラがプラクチカである。
戦後には6名娯楽がなかったから地元の映画館というのが唯一の庶民の楽しみであった。音羽通りにも音は名画座というのがあった。そういうところに父に連れられて行ったのであるが私が唯一覚えているのはウォルトディズニーの動物映画砂漠は生きていると言うのであった。後で調べたらこれは16ミリカメラのスペシャルCinekodakで撮影したものを35ミリにブローアップしているのである。オリジナルはコダクロームであったからすごいなと思った。
ニコマートが登場したのが1968年。それ以前ニッコールレンズを使うためにはニコンエフを買うしかなかった。当時のニコンエフがどれだけ高価なものであったのかと言うのは今説明しても若い人には分かってもらえないと思う。ニッコールレンズを使うためのニコンマウントのカメラとして登場したのがニコレックスエフであった。これも素敵なカメラであるがその名前ニコレックスと言うのは安物のニコンと言う意味なのでそこら辺がカメラ人類のプライドを引き下ろすのである。