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クラシックデジカメを愛する市民の会というのができて、2年位になった。1000人近いメンバーがいるのだけれども、皆さん大切に使っているデジカメがいずれも10年以上前のやつなのだ。
佃島の25年位間、昔は雨の日に歩いていると、巨大ながまがえるさんが傘ゴソッ出てきたり、晴れた日の夕方には蝙蝠さんが端端飛んでいた時代が確かにあったのだ。
スナップ撮影をするときには、広角レンズばかり使っているので、85ミリとか135ミリのレンズを使う事は稀である。数年に1度位思い切って85ミリのレンズをつけたりする。これはソ連製のゾナーのコピーであるから85ミリではなくて、正しくは8.5センチと言うべきだな。
日大の写真学生の頃、1番最初に歩きまわったのが1966年の銀座界隈であった。実家が文京区にあったから、1番近くでメトロで行ける盛り場と言う感じである。その後1968年になって、東京にはデモンストレーションの嵐が吹き荒れていて、1968と言うタイトルはずいぶん本のタイトルにもなったり、私がコレクションになっている東京都写真美術館でも1968と言うタイトルで外国あたりに企画写真展を持っていったりした。
今はもう存在しない。フイルムメーカーが作っていた一眼レフというのがそれぞれに個性的なものであった。何が個性的かと言うと、メジャーな一眼レフにはなれなかったと言うことである。それぞれのカメラは2を開けると中にシールが貼ってあって、コニカフィルムを使いましょうとか富士フイルムをどうぞとなっていたのだが、ここら辺の戦略がうまくいかなかったようだ。
10年位前にJTBの取材でサンクトペテルブルグとモスクワを見て回った。文化的な取材であるからエカテリンブルク宮殿とか黄金のリングの修道院などを見て歩くのである。9月末の取材だったから、ロシアは完全に秋であった。ところが雑誌に掲載されるのは、翌年の5月号と言うわけで風景に紅葉が写っているのは良くない。と言う。どうでもいいようなことで苦労した。
高校生の時は2.8センチのニコンエフを使っていて、日大写真学科1年に入ったときにミラーアップして使うニッコール2.1センチを手に入れた。当時はレトロフォーカスの広角レンズの技術が未発達だったので、ミラーアップして使う広角レンズと言うのは普通の存在だった。
40年前のオーストリア、ウィーンの生活の時に7年と6ヶ月かけて3000本位のフィルムを撮影した。これは全部モノクロフィルムである。
化粧品のポーラのお店の看板と言うものに昔から異常な興味を示している。ただしその興味を示し方というのが特別であって、ボロボロの看板というのが好きなのだ。
1934年にドイツコダックから出た世界で初めてパトローネ生の35ミリフィルムを使うレチナカメラである。値段は当時のライカやコンタックスに比べて非常に安かったので爆発的な人気カメラになった。
2009年10月 3日 (土) 草森紳一さんの仕事場
2009年10月 1日 (木) 「空樹」の成長日記 東京。佃。 回路滞在中に、東京のシーンで楽しみにしていたのは「夢見櫓」(このふやけた名前も、 候補になっていた。いいねえ)の成長ぶりである。 半月ぶりに見たらかなり伸びていた。以前はライカインコの幼鳥から成鳥への成長ぶりが 海外から戻って来るときには楽しみであったものだが、それと同じような高度な高速な成 長ぶりだ。
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2009年10月10日 (土) optonの遺恨多