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1970年代のウィーンに暮らしていたのは今にして思うとなかなか貴重な体験であった。それでライカを持ったりキエフを持ったりローライを持ったりしてウィーンの街を行ったり来たりしていたのであるがこのカメラフォクトレンダーのユニークなカメラも使ったことがある。最初に手に入れたのはVitessaのウルトロンF2がついたやつだった。
50年前私が日本デザインセンターに入社した頃の初任給が35,000円でハッセルブラッドは標準レンズ付きで250,000円位した。つまり月収10倍のカメラであったわけだ。ここら辺も伝説なのだが篠山紀信さんが自分をライトパブリシティーに売り込んだ時に彼はハッセルブラッドとリンホフの大型カメラを持っていると言うので入社オーケーになったそうである。これは信用できないが当時カメラがいかに高価であったことの証明にはなる。
ソ連製のライカコピーと言うのは間違いなく本家のドイツのライカを生産の数で上回っていると思う。クレムリンから赤旗が降りてから手を変え品を変えいろいろ魅力的な製品を出すようになったのが面白い。業界用語ではこれをサモワールライカと呼ぶのである。
1982年から83年1年間マンハッタンに暮らしたわけだが1年の半分はタイムズスクエアのすぐそばのプレジデントホテル。そしてもう半分はSOHOのロフトに暮らしていたのである。そのコントラストが非常に面白かった。
1月に開催された田中長徳ブラパチワークショップで持参したのがこのカメラだ。最近ものぐさになっていてカメラの集合撮影のときには家人から譲ってもらったiPhone SEを展示しているのであるが、参加者の皆さんの中にはかなり凝ったフィルムカメラを持参しているのが多くて、ローライフレックスとか8 × 10インチのイギリス製カメラとか真面目にフイルムカメラを持ってきているのでこれは反省しなければいけないと考えた。
島尾のワイフ潮田さんの写真集である。面白いことにマイハズバンドと言うタイトルで6 × 6センチのカメラで撮ったやつと35ミリカメラで撮ったやつの2つが2冊の写真集になってワンセットになっている。その意図は不明だけれども逆にスクエアなフォーマットと35ミリでは視神経が混乱するからそれの配慮かもしれない。
ライカのボディーにデジカメを入れると言う裏技は有効なのか?
自分の命を保護するためにかなり前からサングラスをかけているのだが、若い頃は視力には自信があったのだけど最近はそうでもない。家人は弱視に近い視神経を持っていたのだが今になると暗いところで裸眼で新聞が読めるのだから凄いと思う。
ギャラリーバウハウスで3月の6日からウィーンとライカの日々と言うタイトルで私の何回目かの個展を開催するわけである。それで当時つまり70年代のwinの暮らしを思い出すにこの写真はその頃のDetailがかなり忠実に表現されていると思う。
30年以上暮らしたプラハの思い出はたくさんあるけれども1番印象が強かったのはこのスターリン建築の様式のホテルインターナショナルである。建物の先端に赤い星がついていて夜になるとそれが点灯するのである。そういう風景をずっと見てきた。
ジュネーブが好きでないのはレマン湖のほとりで年がら年中噴水が上がっていて観光客の皆さんはあれが素晴らしいと言うらしい。ジュネーブサロンを取材に行ったのは冬の盛りの1月であるからあの嫌いな噴水は上がっていないであろうと予想して出かけたのである。案の定噴水は活動していなかった。
雑誌の取材でいちどだけジュネーブサロンで行ったことがある。すでに12年前の2010年の1月の話なのだ。世界文化社と言うところから出しているウォッチの雑誌でそこの編集長が私の読者さんであったので話をしているうちにそういう展開になった。ただし費用の関係で日本から往復の旅費は出ないけど、私が当時アトリエにしていたプラハからだったら取材の費用を出すと言うのでそういうことになったのである。
デジカメの提灯記事を書くのをやめて10年近くになった。だから私のデジカメの歴史は15年位前で停止している。これが非常に具合がよろしい。テーブルの上にいつも置いてあるのがこのカメラである。2009年にペットロスで参っているときにこのカメラが私を救ってくれたのだ。
イーストマンタイプ5222と言うのはモノクロのネガフィルムである。最初のToday Tokyo 写真展示会を開催したのが1969年の8月であるがその頃撮影したフイルムと言うのは実際問題としてトライエックスではなくてほとんど映画用のフィルムで撮影されたものがあった。