新全体主義の思想史:コロンビア大学現代中国講義
張博樹 著
石井知章・及川淳子・中村達雄 訳
白水社2019
(本来は本の内容をのみ紹介すべきだが、この本の翻訳・編集は見るに堪えないレベルでミスが多い。したがって今回は半分の紙幅を翻訳と編集への批判に割いた。)
恥ずかしながら、この本を読むまで、ぼくは張博樹の名前さえ知らなかった。東大にいたころよく読んでいた現代中国の知識人は、前回取り上げた葛兆光のような真に優れた研究者か、東大の教員と仲良くしていた汪暉のような新左派が多い。張博樹が所属するリベラリストのグループにかんしては、徐友漁、茅于軾、朱学勤など大物の名前をよく知っており、論文も読んだりしたことがあるが、教授陣が彼らを語るのを聞いたことが一度もなく、もちろん会ったこともなかった。リベラリストのなかで、生で声を聞いたことがあるのは許紀霖だけだが、それはどちらかといえば、彼の方から積極的に儒学の会議に飛び込んできて、自説を披瀝したためである。仲のいい人といつもつるんで、たいして代わり映えのない議論を繰り返す、ぼくが東大で参加した発表会の多くがこのような代物で、やはりあそこは、タコツボだ。
タコツボから脱出する期待を抱いてこの本を開いたぼくは、目次を読んで心が踊った。張氏は1989年の天安門事件以降の現代中国の主な政治思潮を9つに分類し、リベラリズム、新権威主義、新左派、毛左派、中共党内民主派、憲政社会主義、儒学治国論、「紅二代」の新民主主義への回帰、ネオ・ナショナリズムの順番で説明している。それぞれの思潮の代表的な論者が取り上げられ、主張の紹介と張氏による論評がなされている。一見すると、幅広い視野を持った著作にみ見えた。
しかし、タコツボは張博樹氏も同じだった。自身が所属するリベラリズムを持ち上げ、天安門事件後の不遇と昨今の苛烈を極める言論統制に不満を表明するのは理解できるが、ほかのほぼすべての思潮に対し否定から入るのには失望した。胡耀邦・趙紫陽の流れを汲む「中共党内民主派」にだけは同情と共感を表明するが、それも彼らがリベラリズムに接近しているためだ。つまり、結局は自分との距離でしか相手を評価せず、相手の論理に分け入ることができていないのである。ぼくのように、中国のリベラリズムを知るためではなく、現在の中国にはどのような政治思潮をがあるのかを客観的に知りたい読者としては、本書のような偏った説明では全く満足できない。
あるいは、好意的に考えてみれば、張博樹がわざと自身の立場を前面に打ち出し、感情的な議論で相手からの反論を誘っているのかもしれない。本書の中国語版の紹介文にある通り、「この本は近年稀に見る論争的な著書である」。反論を誘い、停滞した中国大陸の思想に風穴を開けようとしているのかもしれない。しかし、現代中国の論争、とりわけリベラリストと新左派の間の論争を考えると、この点も怪しい。いずれもタコツボ化している両派は、方や個人の権利と自由を保証した立憲主義政治の実現を声高に叫び、方や欧米型民主主義と資本主義の行き詰まりを論証する。両者の意見は完全に対立するものではないし、どちらの主張にも一片の真理があり、参照すべき知見が多数ある。もし彼らが学問において主張を戦わせ、さらにこの本で取り上げられた諸派をも巻き込み、互いの思想を磨き上げることができれば、今日の中国の思想界はきっと異なる様相を呈していたはずだ。しかし、どちらにも相手への同情的理解が欠落しているため、論戦は揚げ足取りや、政権に対する姿勢の批判に終始している。盗用かどうかで数年間揉めることさえあり、全く思想面の深まりが期待できない状況である。残念ながら、この点はリベラリストに限らず、現代中国のすべての思潮に言えることである。
もちろん、学者らだけを批判するのは公平に失する。なぜなら、論戦が深まらない要因の一つに、中国の言論空間の狭まりがあげられるためだ。張氏が指摘したように、リベラリスト論者はとくに政権に目の敵にされ、自由に書けば発表できず、ひどい場合は逮捕・投獄の憂いさえある。張氏のように海外に脱出していなければ、こうして自説を一冊の本にまとめることさえ困難だ。だから彼らは真意を巧妙に隠しながら書くしかないのだが、その状況では心ゆくまで議論できないのも仕方がない。それなら、正面から政権を批判すべきだと考えるかもしれないが、今の中国でそれをすればどうなるのか、学者らもよくわかっている。危ない橋を渡ることを他人に強要することは、少なくともぼくにはできない。
そうした状況を鑑みると、この本が日本で刊行されるのは本来意義深いはずだ。現代中国の思潮を知るのみならず、「価値観を共有する国々」という文言で中国を牽制しようとする日本政府にとっても、価値観を共有できる中国人がいることを知るチャンスになるからだ。しかし、本書の翻訳、編集の水準では、おそらく読者を遠ざけてしまうだろう。以下数例を挙げる。
本書のミスは、目次で登場する「天王成」という人名から始まる。なにやらアニメに出てきそうなキャラだが、実際は「王天成」の入力ミスである。なぜこんな間違いを犯すのか理解に苦しむが、とにかく目次からしてこの体たらくでは、本文のミスの多いも仕方ないーー読者からすれば、たまったものではないが。
漢字のミスはこれにとどまらない。新左派の重鎮・汪暉はこの本で重要な論敵として扱われ、また複数の著書が邦訳された著名な思想家である。にもかかわらず、彼の名前を「王暉」と間違えたところがあった。人名以外では、「特権階級」を意味する中国語の単語「権貴」が、複数箇所でよく似た字形の「権責」になっていた。これでは全く意味が通じない。校正を真面目にやっていれば起こりようのないミスが、この本では二桁をくだらない。
翻訳となると、さらに穴だらけだ。最初のページから中国語の愚直な直訳だった文章は読みにくく、ぼくは「まあこういう翻訳スタイルもある」と自分を納得させてみたが、「百の足を持つ虫の生暖かい死骸」には思わず吹き出した。果たして中国語がわからない読者にこの訳文の意味がわかるのだろうか(「力のあるものは衰えても影響が残る」の意)。また、張博樹が政権におもねる一部の学者を揶揄したところでは、学者たちのことを「ゲーテ派」と直訳した。たしかに原文はゲーテの中国語表記である「歌徳」だが、ここではドイツの文豪ゲーテと全く無関係である。中国語には「歌功頌徳」(「権力者の功績を讃える」)という言葉があり、「歌徳」はそれを略したネットスラングである。たとえこのネットスラングを知らなくても、前後の文脈に全くゲーテが出てこないのを不審に感じ検索すれば、すぐに正解にたどり着けるはずだ。にもかかわらずこの誤訳が残っているということは、翻訳者の読解力、知識、原文を読み込む姿勢すべてが足りないということである。
さらに、本旨に関わる言葉の誤訳もある。中国の政治制度に関するリベラリストたちの構想の一つに、香港、チベットなどに欧米でいう自治領に近い高度な自治権を与えるべきとするものがあり、中国語では「邦聯性質的聯邦制」と呼ばれる。ここの「邦聯」は日本語では「国家連合」にあたるが、本書の訳文では「連邦」となっていた。その結果、「連邦の特性を持つ連邦制」という意味不明な訳語が出来上がってしまっている。翻訳者、校正者、編集者、一人でも真剣に訳文を読み直していれば、このようなミスは起こりようがないと思われるが……
ミスを指摘するのは、この本の価値を貶めるためではない。前半で張氏の問題点を指摘したが、それでも現代中国の思潮を紹介した本は貴重である。日本を含む西側諸国の多くの一般読者は、中国の思想を赤一色のように思い込んでいるが、13億もの人口を抱える国がそんな状態であるはずがない。したがって多種多様な思想が存在することを知らしめるだけでも、この本は十分海外で翻訳される価値を持つ。しかし、日本語版の出来は散々だ。およそ学術書の水準を満たしていない。張博樹氏に失礼だと思わないのだろうか。本書の翻訳者3名は、まえがき・あとがきでそれぞれ張博樹氏に対する敬意を表明しているが、その言葉が果たして心のこもったものかどうか、ぼくは疑いを禁じえない。それとも、中国のリベラリズムに対する日本の関心が、本当にこの程度しかないのだろうか。