信州温泉旅情(別所温泉・鹿教湯)③
本日は、鹿教湯温泉から上田に移動。上田城とその周辺を歩きます。市内に入っても、温泉モードは止まず、学びとくつろぎの時間に。
前日はこちら。
鹿教湯温泉の朝
鹿教湯には二つの外湯+「クアハウスかけゆ」があります。クアハウスは近代的でもう一日あれば、じっくり癒しの場所にはなりそうで、湯治場らしい施設です。もう一つの外湯は中心地から少し徒歩で十数分くらい下ったところにあるので、日が昇る前に、向かってみます。
近くに着くも、どうしても見当たりません。明け方に民家のあたりをウロウロ、公民館のあたりをウロウロと探りながらも結局見つからず、でした。
後で考えたら、灯りがついていないのは当然なんで、灯りを頼りにしたのが間違いでした。また次の機会に。
朝食は場所を移動して、この日も野菜たっぷりの朝食。
最後にもうひと風呂。お風呂は一部循環となってましたが、よく見れば、湯舟の端から、お湯は流れ、ほとんどかけ流し状態。
望山亭「ことぶき」ともここでお別れ、女将さんはじめスタッフの方々も大変親切で、清潔感と料理も満足度高く、特に女性にはおススメのお宿です。
この湯端通りの付近では、初夏にホタルも見れるということで、初夏のホタル、秋の紅葉といつ来ても良さそうな鹿教湯でした。
丸子温泉郷
バスで、内村川沿いを下っていく街道は、よく見たら、国道254じゃないですか、都心では川越街道にあたります。東に向かえば、松本までつながっているという長大国道。鹿教湯を出たらすぐの集落に「大塩温泉」という名前が出てきます。こちらは、信玄の隠し湯とアナウンスされていました。
更に下ると、「宮沢」というバス停で、お客さんがかなり乗ってきます。
ここは「霊泉寺温泉」の入口なのでした。
鹿教湯、大塩、霊泉寺とこの3つで「丸子温泉郷」と呼ばれており、国民保養温泉地に指定されています。
大塩、霊泉寺温泉とここに来なければ、分からなかった温泉地であり、次来るときにはこちらも足を延ばしたい。
上田の駅に近づけば、千曲川が造った河岸段丘的な地形が続きます。
城内にある「上田市博物館」
上田駅から上田城までは徒歩で10分強。途中、上田藩主のお屋敷跡を眺めながら、まずは、上田市観光協会へ。
当然ながら、真田氏の展示物がお目当てですが、今回は企画展で「信州上田湯けむり紀行」なるものが開催されています。
外側の展示物は真田氏や藩主松平氏関連の展示、内側には温泉企画。もう目移りするんで、一周内側を見て、もう一周して、歴史物を拝見しました。
信州上田湯けむり紀行
「(鹿)が(教)えた(湯)は特(別)な(所)」ということで、丸子温泉郷と別所の温泉企画展。
過去の絵ハガキの写真やチラシ、パンフなどから始まり、かなり本格的な文献まで展示。
上記のようなお気軽な展示物から、下のようなマニアックで貴重なものまであります。
こちらは、今回通過しただけの、丸子温泉郷の「大塩温泉」。
ということで、カメラOKで、載せきれないほどの資料。見ているだけで、温泉に浸かったような気分に。温泉ネタによる「プラセボ効果」。
徳川家、天敵の拠点「上田城」
歴史物の展示も見ごたえあるものばかり、妻は「どうする家康」からの熱が冷めやらずで、展示物に、のめりこんでいます。
こちらは、中学の時に見た大河ドラマ「武田信玄」(新田次郎原作)から戦国時代に突入したので、真田は少しだけかじってますが、一番偉かったのは真田幸隆でしょう。彼が居なければ、真田家代々、あんな知略に富んだ生き延び方はできなかったはず。
こんな戦国時代の実際の「のぼり旗」はなかなか見れないのでは…。
個人的には↓幕末の、この辺りの展示が面白かったです。
ということで、展示物はごく一部、語りつくせない市民博物館を後に、お城の城内へ。
上田の二回の戦はあまりに有名で、二度の徳川との対峙も撃退し、2回目の徳川秀忠に至っては、ここで秀忠軍が足止めをくらい、関ヶ原の戦いに間に合わないという失態に至らせる。関ヶ原が終わった後には、当然、徳川家に破壊されますが、しかし、もともとは家康が命じて、これを支援して、真田昌幸が築城。まさに家康にとっては、悶絶極まりない上田城なのでした。
この城の左側には当時、千曲川が流れており、自然の要害をつくり出していました。こちら側からは攻められない。しかし、同時に千曲川の浸食も甚だしく、結局石垣を築くことになりました。名城に自然の要害ありです。
お次は城の東側へ。こちらは二の丸のお堀の中の道ですが、なんと過去には、お堀の中に電車が走っていました。
「北国街道」
さて、上田城を後に、少しだけ、旧街道を歩きます。城の北側に西にまっすぐに延びている街道が「旧北国街道」。起点は中山道の追分宿(信越本線「信濃追分」駅付近)から越後へ抜ける街道です。
やや、古めかしい家もありますが、普通に歩いていたら、そこまで街道の気配はしないでしょう。
復興の「架け橋」
上田市のメイン通りに戻って来て、駅方方面に向かいます。
お腹が空いたということで、上記には残念ながら入れず、食事処を探します。駅近くのお蕎麦屋さんへ。
3日連続のそばになりそうなので、ココでは、うどん。こちらは、鍋焼きうどん、娘はきのこ蕎麦、妻は「真田うどん」。真田うどん!?とは、初耳。聞けば、この店のオリジナルということで、真田紐という真田にまつわる平たい紐があるようで、それを模したうどん。
信州上田ともあと1時間半でお別れ。名残惜しく、今一度、千曲川を見に歩き始めました。
当時の洪水で、上記の橋の向かって一番右側のトラス橋が落橋しました。ニュースの画面を見ていて気がついたのは、明らかに越水(堤防の上を越えて水が溢れる)箇所があること。これは堤防の設計上、100年に一度あるかないかの降水量だったということになります。
あの時、長い付き合いの友人夫婦の実家が千曲川沿いで、ご両親、1階の天井近くまで水が来て、もうダメかと思ったという話を聞きました。友人も休み返上で泥かきに行っていました。あれから、5年、地震、台風ほか日本は自然災害と隣り合わせの国。普段からの備えあっても、それでもなお、災害を食い止める事は難しいのを痛感します。
この千曲川鉄橋が復活したように、北陸の復興を祈りつつ、小さなことでもできることを探して、動いてみます。了 2024.1.2-4