『死にあるき』考察(1):朱鷺子はなぜ理解されないのか
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見やすくなったかと思われるので、よければ
了子『死にあるき』ネタバレ考察1:朱鷺子の行動思考、なぜ理解されないか
『死にあるき』。
好きな作品のひとつで、人間が抱える「生き死に」に関する個人の考えや、社会的な規範が人に及ぼす影響などを映し出している漫画。
主人公である朱鷺子は、難解なように見えて実にシンプルな考えを持ったキャラクター。
ただ、一般的にそれが理解されにくい思考、行動であるため、周囲の人間にとって彼女は恐ろしい存在として映る。
なぜ朱鷺子を理解するのが難しいのだろう。
ここからはネタバレを含むので、未見の方はご注意を。
朱鷺子について
すでに漫画を見た人向けに書くので、あらすじは省略。
朱鷺子を端的に表すならば、以下の2点。
・共感力が著しく低い(本人も自覚あり)
・主体性の欠落
・共感力の低さ
診断を受ければサイコパスに分類されるかもしれないと朱鷺子本人も作中で述べていたように、彼女の共感力は著しく低い。
たとえば、「大切な人が亡くなったなら、悲しむものだ」と家族から求められた時。
共感力は低いものの、朱鷺子は別に悲しくない訳ではない。
「大切な人を失って、自分を哀れむことをしたくない」といった発言から、他者を自分のために消費したくないという考えが根底にあったのではないかと考えた。
障害者ポルノと呼ばれる、障害者が頑張る様をみて全く関わりのない他者が涙を流すことに嫌悪感を覚える人もいるだろう。
彼女にとって、身近な人の死はそれに近い。
となると、その考え自体は非難されるべきものだとは思わない。
ただ、悲しんでいる人の手を握り、一緒に涙を流すといった共感力の高さから期待される行動や、「家族が亡くなると悲しいものだ」といった社会的な規範に沿う行動を取れないというだけ。
・主体性の欠落
朱鷺子は人の意見に流されず、意志を持って行動する。
涙は流せなくても、家族が死んで悲しいというそぶりをしてさえいれば、きっとここまで非難されることもなかった。
朱鷺子という存在は、自分なりに考えて行動に移すことができるが、自身で何かを見つけるのは不得意なように思える。
つまり、自主性はあるけれど、主体性がない。
明確な優先順位に従って生きる朱鷺子にとって、最も大切な義父。
だから義父の言うことに従い、義父の幸せのために生きる。
その義父に「お前はお前の幸せを自分で選びなさい」と言われた朱鷺子。
義父が存在しては自分の選択が制限されるため、朱鷺子は義父がいなくならなければ「自分の幸せを選べない」と考えた。
一見主体性を持って行動しているように思えるが、これは朱鷺子自身が考えたのではなく、優先順位が高い義父の意志を尊重しての行動。
そのための手順や行動については考えたけれど、それは主体性からの行動だとは言い難いのではないか。
主体性と「生」
共感力の高さは必須ではない(あった方が生きやすい)けれど、主体性は生きるうえで必要。
「死にたい」と考えるとき、死に近いとき、主体性は失われていく。
何かを選択することはすなわち生きること。
だから、朱鷺子が主体性を手に入れようとするたびに誰かの「生」の回収が起こった(ここは仮説として作中で言及されている)。
すでに死とともにあった彼女だからこそ、生きるために欠かせない主体性を手に入れるため、誰かの「生(主体性からの行動)」が必要だったのではないか。
つぎは朱鷺子の死生観について更新予定。