優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる (俵万智)
高校生の時、表題の歌を引用して、「この歌について、「一球」とは具体的にどのようなもののことか、自分の体験を交えて200字以内で書きなさい」というような問題が現代文の試験に出題された。試験の最後の大問に毎回200字作文が課されていて、はなから書くのを諦めている友達も少なからずいた。昨年度、教育実習で80人分の作文の添削に泣かされた身からすると、毎回のテストの最後に200字作文を出題して採点し、3日程度で返却、優秀作品のピックアップと講評まで済ませていた先生方には頭が上がらない。
それはさておき。わたしを含め、わたしの通っていた高校には「優等生と呼ばれて長き年月を」送りつつある生徒ばかりだった。課題やテストの多さには辟易したが、「真面目だね」という言葉が軽蔑のニュアンスを含んだ中学時代と比較すると高校は格段に過ごしやすく、平穏な日々を送っていた。多くの生徒が優等生真っ只中であって、「かっとばしたき一球」を受けたことがないからこうして学校生活を送っているのに、一体どういう解答を期待していたのだろうか、と今更ながら思ったりする。
試験での出題に対して、わたしは「優等生であることを理由にいじめられたとき」というような解答をした。たしか、「歌とずれている」と書かれて4/8点をもらった気がする。頑張って書いたのに「ずれている」だなんて悔しかったなあ。そのとき配られた優秀作品には、「周りが見えなくなるほどの恋」とか、「勉強よりも大事なこと」だったかそのようなことが書かれていたのをうっすらと覚えている。先生が満点をつけたであろう優秀作品を見ても「一球」がどういうものなのかまったく納得できず、作者の意図は一体なんだったのかしら、と思いはしたものの、他の教科の試験直しに追われて、その試験問題のことは放置してしまった。
数年後、大学生になってから、俵万智の第一歌集『サラダ記念日』を手に取ってひさびさに表題歌と再会した。あ、試験に出た歌だ、とすぐわかったとともに、「一球」がなんなのかということも、考える間もなくすとんと落ちた。こういった並びで表題歌を見つけたからである。
「木曜のドラマ」というのは、松嶋菜々子とダブル主演の『age35』という不倫ドラマらしい。あきらかに不倫を詠んだ二つの歌に挟まれていれば、「一球」は明らかに不倫のことだ。そうか、と納得するとともに、まともに恋すらしていなかった高校時代にこの歌の真髄を理解できるわけがないではないかと思って、笑ってしまった。
たった31で構成される短歌は、その文字数の少なさゆえに多くの想像をかきたてる。大学で出会った歌人の先生が「作者の意図しない読みが生じたとしてもそれはそれでよい、それが歌の面白いところ」とおっしゃっていたのもあり、ひとつの歌にさまざまな解釈が生まれるのは悪いことではないともちろん思っている。
しかしながら、少なくともその歌がどのような文脈で詠まれたのか、という点をきちんと理解した上で読みの自由が許されるように思う。それぞれの「かっとばしたき一球」があってもよいが、それは作者の意図した文脈を踏まえて、それとは別の作品として再解釈しているという自覚が必要ではないか。
数年越しにようやく知った俵万智の「一球」、高校生のころの自分よりは理解できるようになったかと思う。しかしながら、この「一球」のようなリスキーな恋には手を出したくないとわたしは思うのである。
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