小島烏水と自然主義文学、柳田国男、田山花袋
日清・日露戦争勝利から、世界大恐慌までの短い期間でしたが、帝国主義の強国として欧米列強に肩を並べ一等国になった、と日本人が勘違いした時代。
知識人においては個人主義や理想主義が意識され、若者の間では自由恋愛が流行しました。「大正ロマン(モダン)」時代の始まりです。
「山岳会」創立者小島烏水もこの時代に探検的、地理学的な記録を「紀行文学」として文芸雑誌に精力的に発表しました。
ロマン主義文学は森鴎外の『舞姫』(1890年)から始まり、島崎藤村・北村透谷らによって推進され、樋口一葉『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村『若菜集』(1897年)、国木田独歩『武蔵野』(1898年)、与謝野晶子『みだれ髪』(1901年)などが代表作ですが、大正初期の「自然主義文学」への転換で終焉を迎えます。
島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋の『蒲団』(1907年)、『田舎教師』(1909年)などが自然主義文学の支柱を成しました。島崎藤村や国木田独歩は、ロマン主義から自然主義へと転換し、花袋は『蒲団』に見られる「露骨なる描写」(評論)によって、人のありのままの心理を表現しようとしました。
小島烏水の交友関係は広く、氷河研究の地理学者山崎直方、民俗学者の柳田国男他、紀行作家として活動していく中で、田山花袋、石川啄木、与謝野鉄幹・晶子など文士たちとの交流がありました。
烏水は花袋の作品について、事実に合っていない個所を注意したり、烏水の『日本山水論』を花袋が山崎直方に紹介してくれたりと、親交が深かったようです。
花袋が紀行文家と言われた時分は、自然派文学勃興以前のことで、文章に感傷癖はあったが、淡泊清新、ことに武蔵野あたりの原野や雑木林の寂しさを、淡彩的に点描するのに巧みであった。武蔵野といえば、ただちに独歩の名作が連想されるが、花袋も紀行文家として『野の人』であった、武蔵野の人であった。私はなんのかのと、不足は言いながらも、しんみりと落ち着いた心持ちで、花袋が読めた。自然派勃興以後の花袋自身は、おそらく「こんなもの」と言うかもしれないが、私のすきな花袋は、やはり情緒綿々たる紀行文家の花袋である。...①小島烏水「日本アルプス」
烏水は紀行文家としての花袋が好きでした。ここでは花袋が紀行文家を「こんなもの」といっています。花袋が紀行文家から「露骨なる描写」に移っていくことを少し憂い始めたようにも思えます。
花袋は、その後『蒲団』や『一兵卒』など自然主義派の見本のような小説を作って、国木田独歩、岩野泡鳴ら同主義の作家と呼応して、自然主義を文壇思潮の主流たらしめ、硯友社その他の既成老衰作家などを、ひとたまりもなく押し流してしまった。一方『文章世界』に倚よって、若年を養成し、勢い当たるべからざるものがあった。その余威を駆って、と言っては不穏かもしれないが、自然派以外の作者たちは、たいていこの一派でやっつけられた。たまたま『文章世界』第二巻第十三号で、片上天弦、前田木城、水野葉舟、吉江孤雁ら合評の紀行文家月旦が出た。俎上に載せられたのは、麗水、桂月、天随、花袋、孤雁及び私であったが、一番ほめられたのが花袋と桂月で、当たらずさわらずのところが麗水、孤雁、最も手ひどくやっつけられたのが天随と私で、ことに私はひどく攻撃せられた。その中の一評者が「一時は紀行文は前人の未だ踏まない深山幽谷の奇景を、紹介するのを職とするような傾向であった、いや今でも、そういう好奇心で、紀行を書いている人もあるようだが、これはつまらぬことだろう」と言って、明らかに私に当たっている。つまり日本アルプス探検などは好奇心のなすわざで、その紀行文を書くのは、つまらぬことなんだそうだ。私も黙っていられず、駁論を同誌に寄せて、人の仕事にまで干渉して「これはつまらぬことだろう」とは「つまらぬ注意だろう」とやり返した。私の駁文は紀行文続論として『山水美論』(明治四十一年)に載せてある。
爾来、私は花袋一派の党同異伐に対して、押えがたい不平を抱いていた。そして躍起となって、ますます山に登り、その紀行文を発表した。
...②小島烏水「紀行文家の群れ 田山花袋氏」(アルピニストの手記)
烏水の自信に満ち溢れた、また文士としての評価を気にしている一文です。新しい潮流を批判する老作家たちを「既成老衰作家など」と言い放っています。
柳田国男、田山花袋、島崎藤村、与謝野鉄幹は、烏水の働き掛けで、「山岳会」創立当初からの会員でした。烏水の自然をありのままに表現した紀行文学が柳田国男の民俗学研究の材料にもなりました。
文芸評論家の吉本隆明(吉本ばななの父)...③吉本隆明「柳田国男と田山花袋、『蒲団の衝撃』」によると、柳田国男は自然主義文学の主流をつくっていった田山花袋、国木田独歩、太田玉茗、島崎藤村等の作品に素材を提供しています。しかしながら柳田の自然主義と花袋の自然主義とでは本質的なところでぶつかっています。柳田の自然主義は、社会的不公平とか悲惨に対する抵抗を文学の主眼にすることを花袋にたびたび話しますが、花袋は自然主義にとっては社会に役立つか役立たないかと言うのは文学の本道ではないとかたくなに拒んでいます。
柳田と花袋は二十歳前後の青春期から仲の良い文学仲間でした。柳田は花袋に誘われ何度も旅に出て紀行文も書いています。柳田が民俗学を研究する上で花袋の旅から影響をうけたことがあります。旅人は関心を持ちすぎてそこに居ついてしまうと旅人ではなくなると花袋に教えられました。
柳田国男は田山花袋の代表作『蒲団』に対して「きたならしくて、しょうがなくて、つまらないじゃないか」と称して批判的になっていきました。それに対して花袋は主人公が道徳的に許されないような空想をしたことを、だれでも空想ぐらいはするもので、ありのままに表現するのが自然主義だと言い、両者はそれぞれの道にすすんでいくことになります。
『蒲団』は当時賛否が分かれましたが、間違いなく自然主義文学の代表作であり、現代の高度な小説から考えても高く評価できる文学でしょう。
とはいえ、柳田国男が『遠野物語』を書くときに、花袋の『田舎教師』の行動的な文体に影響を受けたと思われる表現がいくつか見つかると吉本隆明は言っています。
在位の短かった大正天皇の崩御、関東大震災による経済の閉塞感とともにこの時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代、大正モダンの流れは昭和モダンの時代へと引き継がれました。
参考資料
表紙)『抒情詩』の編者(明治30年頃)後列左より柳田國男、田山花袋、前列左より太田玉茗、宮崎湖処子、国木田独歩(田山花袋記念文学館図録より)
1)日本アルプス 山岳紀行文集 小島烏水著(岩波文庫)
2)紀行文家の群れ 田山花袋氏 アルピニストの手記 小島烏水著
3)柳田国男と田山花袋「蒲団の衝撃」吉本隆明(ほぼ日刊イトイ新聞)
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