破戒とロシア文学
丸の内TOEIで、映画『破戒』をみてきました。
原作:島崎藤村
監督:前田和男
脚本:加藤正人、木田紀夫
音楽:かみむら周平
キャスト:
瀬川丑松(被差別部落出身の教員)=間宮祥太郎
お志保(下宿先の士族出身の女性)=石井杏奈
土屋銀之助(同僚教師)=矢本悠馬
猪子蓮太郎(被差別部落出身の思想家)=眞島秀和
蓮華寺住職(女癖の悪い住職)=竹中直人
奥様(蓮華寺住職の妻)=小林綾子
丑松の父=田中要次
風間敬之進(士族出身の老教員 恩給がもらえる半年前にアル中で退職 お志保は死んだ前妻の子 子沢山で赤貧の生活)=高橋和也
大日向重成(下高井部落の資産家)=石橋蓮司
小林貫太郎(尋常小学校の校長)=本田博太郎
高柳利三郎(代議士・猪子の政治的宿敵)=大東駿介
庄太(お坊さんの息子)=ウーイェイよしたか
企画・製作:全国水平社創立100周年記念映画製作委員会
かなり忠実に原作を再現しています。重く難しいテーマでありながら引き込まれていくのは原作の力強さがあるからこそで、映像はリアルに明治の空気や光が伝わってきました。私はこの時代を想像するのが好きです。
あらすじは
明治時代後期、部落出身である瀬川丑松は高等教育を修了し信州飯山で尋常小学校教員の職を得ます。
事情があって下宿先を引き払い、蓮華寺というお寺に世話になります。そこで養女に出されていた旧士族出身のお志保に出会います。お志保が読んでいた雑誌『明星』に与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を見つけ、日露戦争で多くの戦死者を出している時代背景が分かります。丑松はお志保に淡い恋心を抱き、お志保も丑松に好意を示すも、打ち明けられない出自のことを思うと冷たく突き放してしまいます。
父親からは部落出身であることを堅く隠して生きていくよう戒められていました。同じ境遇の思想家、「新平民の獅子」と呼ばれた猪子蓮太郎の論文「懺悔録」に影響を受け直接会って出自をうち明かしたいと思うが、そのたびに父親の声が聞こえ葛藤が続きます。
教壇では児童に慕われ、部落出身の子もいるなか「明治の世の中は、新憲法で身分差別はなくなり、国民みんなが自由と平等を手に入れることができた。」と教えます。旅順で兄が戦死する教え子もいるなか命の大切さを教えます。しかしながら校長は村の代議士のご機嫌をとり、お国のために戦って来いと児童に訓示します。
丑松に部落出身のうわさがたち、他の教員たちも校長の顔色をうかがいながら距離を置こうとするが、同僚の銀之助だけは丑松をかばってくれます。それでも出自の秘密を打ち明けられずに悶々とします。
一番の見せ場は、教室で児童たちに丑松が告白するシーンでしょう。号泣でした。自分が丑松だったらと想像すると、告白するも地獄、隠し通すのも地獄。しかし最後は少し明るく救われる気分になれました。
原作ではさらに含みを持たせた終わり方をしていて希望の光が差し込みます。
藤村は1899年(明治32)から小諸で教師として赴任。翌年『旅情』(小諸なる古城のほとり)を「明星」創刊号に発表。「物を見る稽古」のために『千曲川のスケッチ』を書き記し始めました。自然や生活の様子などを新鮮な感覚でとらえ、『旧主人』『藁草履』『爺』『老嬢』『水彩画家』『椰子の葉陰』などの短編小説を残しています。
1905年(明治38)、書きかけの原稿を持って上京、翌年長編小説『破戒』が自費出版されました。(注1)
私の高校時代、修学旅行が信州でした。その時暗唱して(させられて)今でも口ずさむことのできる詩です。北アルプスの山なみと、浅間山、「小諸」「佐久」「千曲川」を初めて感じることができました。
小説『破壊』は、1906年(明治39)初版が発行されました。時代背景は、自由民権運動や女性にも参政権をという運動(実際には1945年を待つことになる)が盛り上がっていった一時の自由な時代です。日露戦争で経済は疲弊するも、大国に勝利し、不平等条約、領事裁判権を撤廃することに成功し、列強の植民地であったアジア、アフリカ諸国にも希望の光があたりました。
日露戦争中はロシアでは革命の最中でした。帝政ロシアによるユダヤ人迫害は凄まじいもので、そこでロシアを憎むユダヤ系のロスチャイルド財閥が戦費をバックアップしたと言われています。
前年の1905年(明治38)に日本山岳会が創立。小島烏水を通じて島崎春樹(藤村)も入会し、会員番号は84番でした。
ロマン主義から自然主義文学へと移行した時代、柳田國男、田山録弥(花袋)、与謝野鉄幹らも入会しました。小島烏水は登山で見たもの感じたものを小説の材料として提供していきました。日本山岳会で与謝野晶子の講演を開催したときは、会場に人が入りきれないほどだったとのこと。
ロシア文学
当時の文筆家たちの多くがロシア文学の影響を受けていることが分かります。また小島烏水、早稲田の山岳部リーダーだった船田三郎らの登山記録を読むと、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフが引用されています。
『破壊』は1931年(昭和6)、海外では初めてソ連で出版されました。日本学者フェリドマンによって翻訳され、モスクワの文学・芸術文書館に藤村直筆の手紙が残っています。
『破壊』の翻訳の実現に大きな役割を果たしたとみられるのが、藤村と同郷の共産主義者勝野金政(きんまさ)と言われています。藤村はプロレタリア作家ではありませんが、『破壊』にはツルゲーネフやドストエフスキーの影響があると評価されていました。
勝野は1928年にモスクワに入り、コミンテルンの片山潜の秘書になりました。藤村との関係は伏せていましたがともに木曽地域の旧家出身で付き合いが深く、身内同然の仲だったようです。
やがて勝野はスターリン体制下の粛清に巻き込まれ、スパイの容疑をかけられ強制収容所に送られてしまいます。(注2)
たしかにそういわれてみると『破壊』と『罪と罰』の人物相関がとても似ています。
島崎藤村から田山花袋宛「お借りした『罪と罰』を拝読したので返却します」という1903年(明治36)11月19日付はがきが残っています。
『罪と罰』が『破壊』の下敷きになっているのは確かなようです。(注5)
意識高い系の丑松とラスコーリニコフ。『罪と罰』の解釈は超絶複雑で人によって、宗教観によってさまざまな読み方ができそうですが、サスペンス小説としても楽しめます。。。あまりに長すぎてだいぶん中抜きで読みました💦
ラスコーリニコフは高利貸しの老婆とたまたま居合わしたその妹殺しの罪を、ソーニャ(赤貧の家族で育ち18歳で体を売って家族を支える聡明な女性)にだけ打ち明け、説得され自首。極刑でもおかしくない重罪だが赤貧の家庭環境、なけなしの金で人助の善行、心神耗弱、盗んだ金は手付かずで自白通りの発見等協力的な供述で情状酌量、第二級強制労働8年の判決に減刑。シベリアに収監されるが、ソーニャが面会に来てくれて救われる。『破壊』でも最後はお志保が丑松に寄り添ってくれたので明るい気持ちで読み終えました。
ラスコーリニコフは、高度な教育を受け、社会にとって有用な能力を持つものは、法を超えた行いが許されるという思想を持ち、大学時代に書いたその論文が本人の知らないところで新聞に掲載されていました。事件捜査の刑事はその論文を見つけ、ラスコーリニコフが犯人であることを見破っていました。世界には凡人と非凡人がおり、人類の発展に大きく貢献するような非凡人は仮に周辺に犠牲者が出たとしてもそれは許されることだと考えました。これをラスコーリニコフ症候群というそうです。『罪と罰』には善行と悪行、信仰と非宗教、優越感と劣等感、エリートである自分と社会の害悪であるアブラムシ(強欲金貸しの老婆)など、社会の矛盾を二項対立(世界には2つのタイプの人間がいる)と考えてしまっているのではと感じましたが、ラスコーリニコフが陥った悲壮感とか劣等感は、革命と大戦で翻弄されたロシア人の気質を知るのに役立ったような気がして、ロシアの大統領の深層心理にもこのような意識があるのかと思ってしまいました。
参考資料
(注1)小諸市「文豪 島崎藤村」
(注2)東京新聞TokyoWeb ・・・「破戒」が90年前、世界で初めてソ連で翻訳された理由とは… 島崎藤村が部落差別問題描いた代表作 2021年10月13日 17時00分
(注3)TBS報道特集「本当のロシアとは」2022年4月16日放送
(注4)高橋誠一郎 公式ホームページ
(注5)田中富次郎著「島崎藤村Ⅱ=『破壊』・その前後」
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