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本を読む、そして書皮

しょひ、と読む。
iOSでは一発変換されないけれど、ちゃんと日本語にある言葉だ。

本を包む皮、皮といっても動物の皮ではなくて、もちろん紙で出来ている。
書店で本を買うと付けてくれる、あの紙のカバーだ。

わたしは書皮が好きで、付けてもらったら大抵そのままにしておく。(ところで、二度目はちゃんと予測変換に出た。学習が早い。)
ブックカバーの好みは千差万別で、為人が現れる、というと大袈裟にしても、やっぱりその人らしさがある。

最近気になっている人がいる。
朝の通勤で、いつも同じ電車、同じドア付近にいる白髪のおじさん。ビジネスバッグを背負って、一心に手元の小説を読んでいる。
以前、たまたま車内が混んでいたときに隣に立っていて、ちらりと覗いたら、「十二国記」だったのでとても驚いた。え、おじさん、十二国記読むの?趣味がいいですね。わたしもそれ好きです。
それ以来、おじさんが読んでいる本が気になって仕方がない。人さまの読書を盗み見するのはもちろんよろしくないので、なかなか知るチャンスはないのだが、たまにチラリができてもわかるとは限らない。
十二国記はたまたま目についた単語で判別できただけで、大抵の文庫本はヘッダーにタイトルは書いていないし、運良く章題のページだったとしても、よほど特徴的なものでないと、検索してもヒットしない。

で、そのおじさんは、皮のブックカバーを愛用している。こちらは動物の皮である。使い込んだらいい感じの色になってくたっとしそうな、ベージュの皮のブックカバー。その人が黙々と本を読んでいる姿を見ると、なるほど、ひとつのカバーを使い続けるのもいいものだな、と思う。

でもわたしは書皮が好き。
買った時のものをそのまま使い続ける。

書皮は書店ごとに違うので、チェーン店だとおそらく全国統一なのだろうけど、町の本屋さんにはその本屋の書皮がある。すると、何年経っても、これはあの本屋で買った本、というのがわかる。

わたしの持つ中で何おそらく一番古いのは、岩波少年文庫の『ライオンと魔女』に巻いてあるもので、これはもう20年以上前のものだ。
買ってもらったときは小学生だった。
その次に古いのは、講談社のベルズの『未明の家』に巻いてあるもので、これは中学のときの。
岩波少年文庫にしろ講談社ノベルズにしろ、サイズが新書とも文庫とも単行本とも違うので、市販のブックカバーだと合うものがない。
その点、書皮は本のサイズに合わせて上部を折るので、どんな本でも対応できる。

お店で買うと、レジの人が本の高さに合わせてシャっと書皮を折って、パタパタと巻き付けてくれるのを見るのが好きだ。
まるでプレゼントのラッピングみたい。
最近は上が折られている書皮が多くて、少しさみしい。

さて、古い書皮はもう折り目がボロボロで、あちこち破れている。
わたしは栞を持ち歩かないので、当然書皮を読みかけのページに挟むわけで、そうするとただでさえ傷みやすい折り目が引っ張られて、より弱くなる。

『未明の家』は神保町の三省堂書店で買ったもの。あの頃は、というかあの頃までは、神保町で本を買ってもらうことが多かった。
表紙側の折り目はボロボロで、半分以上破れている。あとちょっとで分解されてしまう。それとももうしていただろうか。
それでも捨てずに剥がさずに、そのままにしているのは、その書皮があってこそ、その本だという感じがしてしまうからだ。

慣れ親しんだ書皮は、第一の表紙だ。
書皮のまま本棚に並んでいるのに、その背を見れば、あ、あの本だな、とわかる。反対に、その本の本来の表紙のほうが、見慣れなくてどこかよそよそしい。

なんの感慨もなく外して捨ててしまう書皮がある一方で、擦り切れて使い物にならなくても捨てられない書皮がある。
それはそのまま、その本との思い出の量なのかもしれない。

最近は通販で本を買うことも多くなったので、書皮を付けてもらう機会が少ない。通販は便利で好きだけど、そのお店の顔ともいえる書皮がないのは、やっぱりどこかさみしい。
書皮コレクターではないけれど、いろんな書皮が本棚に並んでいると、ちょっと楽しい。

書皮。

今度本を買うときは、ぜひ「カバーお願いします」といってごらんよ。
それだけで、ちょっと特別な1冊になるから。


たしか書皮の本があったよな、と思って調べたらあった。たぶん読んだことがある。
全ての書皮を愛するひとへ。

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