「凡例:一、本書は、古今英国の諸事情をあまねく知らんと欲する人の為には、ほとんど何の役にも立たないことを目的として、特にリンボウ先生の偏狭なる視点をもって選び出したる八十九項目よりなる。」
イギリスが好きでイギリスに赴く人の必携の書に、林望(はやしのぞむ)、通称リンボウ先生の『イギリスはおいしい』がある。
わたしも留学前にクラスメイトに勧められて手にしたが、なるほど、英国事情を知るのに有用かといわれれば首を縦に振ろうとしてやや斜めになりそうだが、英国人や英国文化というものを知りたい人にとっては、これほどおもしろく汎用性の高いエッセイはないのではないか。
「豚の個人主義」に代表される英国人の個人主義のありようは、日本人にはなかなか理解が難しい。先方がこちらの事情を推し測って最適と判断したものを提供するのが日本人の美徳、先方がこちらの事情を読み取れないことを前提として自分の好みを選べるように提供するのが、英国人の美徳である。
そういったあれそれを、わたしはリンボウ先生から学び、そして実際イギリスで「なるほどこれのことか」と思うことが多々あった。
さて、リンボウ先生の英国関連エッセイは数多くあるが、「イギリスならでは」であり「瑣末事」に徹底しているのが、この本である。
林望著『大増補新編輯 イギリス観察辞典』(平凡社、1996年)
1996年刊行。
すでに20年以上前の本であるけれど、情報が廃れるのなんのと疑ってかかってはいけない。
イギリスという国は、日本よりも遥かに時間の進みが遅い。日本でもそうであるように、英国人根性というものは、数十年でガラッと変わってしまうほどヤワではない。
というか、こんなジョークのようなエッセイを出しているのが「平凡社」という時点で、もう信頼できる。ありがとう平凡社。
ジョークのようであるけれども、笑って読める軽いエッセイであるけれども、リンボウ先生の観察眼と洞察力を侮ってはいけない。一度でも英国に行ったことがある人ならば、「あれはこういうことだったのか」と思うだろうし、少しでも英国人と付き合いがある人ならば、「だからあのときああだったのか」と納得するに違いがない。
わたしの好きな項目のひとつに、「郵便ポスト」がある。
イギリスの道路に立っている、円柱型の集荷用の郵便ポストの歴史について説明があるが、この形のポストができたのはヴィクトリア朝時代のことで、映えある第一号のポストはまだ現役で使われているらしい。さすが、古いものをいつまでも愛するイギリスである。
少し長々と引用してしまった。
わたしはここを読んで、「知らなかった!」となり、「家の周りはどうだろうか」と探検をした。というか、出かける度にポストをじっくり眺めるようになった。
あいにく、わたしの住んでいた地域にあるのはほとんどがエリザベス二世のサイファーで、つまり新しい(といったって彼女の治世は当時でも60年近かったのだから、古いといえば古い)ものばかりだった。
なかなか古いものは見つからないなあ、と思っていたある日、ロンドンのリージェンツ・パークの側で、ついに「G.VI.R.」が見つかったのである。
ジョージ六世といえばエリザベス二世の父王で、第二次世界大戦の英国を率いた国王だ。そんな歴史上のことよりも、わたしにとっては「英国王のスピーチ」でコリン・ファースが演じたということのほうが重要であるが、とにかく、その贔屓の国王のサイファーが見つかったわけである。
なるほど、これは嬉しい。
写真にとって友人に自慢したが,「へえ、ふーん」という反応しか返ってこなかった。
解せぬ。
一事が万事こういったふうで、リンボウ先生の解説を読むと、イギリスの景色の解析度が上がる。
この辞典に関していえばあまりにもニッチで、イギリスに行った人にしか伝わらない(行った人にも伝わらない)内容も多く、英国初心者には『イギリスはおいしい』のほうを薦めたくはなるのだが、だがしかし「我こそは英国を愛する者なり」という人には,ぜひこの辞典を読んで欲しい。
もっとイギリスが好きになること、請け合いである。