時間泥棒に急き立てられて
ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波少年文庫, 2005)
時間がない。
時間は大切だから、節約しなければならない。
できるだけ効率よく、できるだけ合理的に、できるだけ多くのことを短時間で成し遂げなければ。
時間が足りない、と思うことがよくあります。
やりたいことが多すぎます。
だらだらする時間も欲しいです。
あれもこれもやりたいし、なんにもしない時間も必要です。
やらなければならないことをしていたら、やりたいことができません。
そんな葛藤を、誰しもがもっています。
わたしの抱える矛盾のひとつは、体調管理の一環としてできるだけ歩くことと、本をたくさん読むことです。
1月*日の記事にも書きましたが、その解決策として、オーディオブックを取り入れました。
わたしが聴いていたのは、ミヒャエル・エンデ著『モモ』という、とても有名な物語です。
これはたまたま岩波少年文庫刊行なので、とても久しぶりに#岩波少年文庫70冊チャレンジ にカウントしますが、今回は作品の感想は半分くらいです。
『モモ』の物語はあまりにも有名で、読んだことがない人でも「時間泥棒」という名前を知っているくらいです。『モモ』は、人々の時間を盗んでいく灰色の男たちと、人の話を聞くのが大好きな女の子モモの戦いの物語です。
あとがきでエンデが語っているとおり、この物語はいつの時代にも当てはまる、人々の時間の物語です。いつの時代であっても、前の時代より少し便利になり、少し便利になって余った時間に新しい予定を入れたくなるのは、人間の性です。
エンデの生きた時代は、戦後の経済復興に乗っかって、世界中が大量生産と大量消費に夢中になっていく時代でした。エンデは1929年生まれ1995年没。『モモ』が本国で出版されたのが1973年でした。第二次世界大戦の最中に大人になり、戦後の復興期を若者として支えていたのでしょうか。
終戦後の日本のことを考えても、戦後からバブル期までの経済成長は目を見張るほどだったわけで、それは同じく敗戦国のドイツでも同じことでしょう。『モモ』の舞台はどちらかといえば南欧の都市のようですが、どこであっても、戦後の空気感には共通しているものがあったのではないかと思います。
モモは素朴で優しい浮浪児で、モモの周りの人たちも、生活は苦しいけれど思いやりのある人たちばかりでした。お互いが持てるものを持ち寄って、楽しく暮らしていました。
それが、灰色の男たちが来たことによって、世界が変わってしまいます。
灰色の男たちは、「時間泥棒」と称されていますが、どちらかといえば「時間詐欺師」のほうが近いでしょう。
言葉巧みに「時間の大切さ」を吹聴し、どうすれば1分1秒を節約できるかを説き、その時間をよりよい生活のために投資しよう、と宣伝する。
そういう話を、わたしたちは現代でも常に見聞きします。
そして節約した時間はどこにいくのかといえば、時間銀行に貯蓄されていずれ戻ってくる、というのです。ますます投資詐欺のような話です。実際には、貯めた時間は戻ってこないのですから。
そうして、人々は効率化を求め合理化を求め、その中で真っ先に削られていくのが「ほかの人と過ごす時間」です。
友だちが一人も会いに来てくれなくなってしまったモモは、みんなを元に戻そうと奮闘するのです。
そういう話を聴きながら、皮肉なものだなあ、と思いました。
なぜといって、わたしは「時間を節約してより多くのことをするため」に、本を読むのではなくオーディオブックを聴いているからです。
1分1秒を節約して、それでなにか有意義なことをしているのか、と問われると、よくわかりません。ダラダラして体力回復をする時間が、ひょっとしたら増えたかもしれませんが。
時間とは何か、生きるとはどういうことか、人が人らしい生活を送るとは、どういうことなのか、そういう話を聴きながら、出勤時間に間に合うように朝ごはんの時間を削り、通勤電車に走って飛び乗り、人を避けるようにして乗り換え、5分の遅延にイライラして、朝の時間を過ごします。
限られた就業時間の間にできるだけ仕事を詰め込み、人に指示をする時間さえもどかしく、できることならずっと一人で個室にこもって仕事をしたいなあ、なんて考えています。
人らしい生活とは、いったい何なんでしょうか。
人らしい時間の使い方とは、どのようなものでしょうか。
第二次世界大戦前後らしいなあ、と思うのは、たとえば学校や教育のシステムについて、例えば画一的な大量生産の家屋や商品について、「これだから新しいものは」という視点が、作品の中にあることです。
これは他の作家、例えば「ナルニア国」のC. S. ルイスや、以前読んだ『ゆかいなホーマーくん』でも見られる傾向です。つまり一般的に、人間は新しいものや流行りのものに流されるのを、どこか怖いと捉えているのです。
21世紀のわたしたちから見れば、合理化されたシステムというのは、もちろん弊害はあるけれども、全体としては取りこぼしが少ない便利なシステムです。(現代は、この合理化・効率化が旧システムになりつつあるとは思いますが。)
「最近の若いもんは」という愚痴は、現代でも10年前でも100年前でも、なんなら1000年前でも、世界共通の愚痴であることを思うと、新しいものに対する嫌悪感もまた、時代と世界共通のものなのでしょう。
今また、世界が戦争と同じような強引さで変わりつつあります。
「もとの生活に戻ったら」と思い描くことは、きっと起こらないのでしょう。これからどんどん、これまで以上のスピードで世界が、生活が変わっていきます。
灰色の男たちが盗んでいたのは時間ですが、いま奪われているのは、その中でも「人と過ごす時間」のように感じます。意識していれば、オンラインで簡単に繋がれる時代では、意図しない、偶然の、予定していなかった人との時間は、ほとんど起こらなくなっています。
それを「効率がいい」とか「楽でいい」というのはとても簡単なことです。もとより内向型のわたしにとっては、今の状況は実はあまり苦ではありません。
だからこそ、意識的にそういう時間をもつのはハードルが高くて、「偶然」を奪われるというのは大変なことなのだな、と思います。
そして、「時間泥棒」にばかり目がいってしまう『モモ』の物語の中で輝いているのは、そちらのサスペンスではなくて、子どもたちの航海の物語であったり、ジジの語る王女と王子の物語であったり、そちらのほうだなと思うのです。
読者もまた、モモに寄り添っているつもりでいながら、「時間泥棒」という病魔に目を奪われて、本当に楽しかったことを、読んでいるうちに忘れてしまうのです。