「人間ってものは、借り暮らしやのためにあるのよ ー パンが、バターのためっていうのと、おんなじよ!」
メアリー・ノートン著、林容吉訳『床下の小人たち』(岩波少年文庫、1956、2010)[1952]
スタジオジブリで『借りぐらしのアリエッティ』という題で映画化されたのが、2010年のこと。
映画は見たのですが、原作には手付かずでした。
ようやく読めた。
メアリー・ノートンについて
1903年ロンドン生まれ。
ベッドフォードシャーで幼少期を過ごし、その後ロンドンに戻って舞台女優となったり、結婚してポルトガルに移住したり、アメリカに移り住んだり、またロンドンに戻ったりと、生活の場所をあちこち移した人です。
それはもちろん、2回の世界大戦を生きていたことと無関係ではありません。
空襲を避け、危険を避けて住む場所を移動し、職業を替え、時代に翻弄されるような人生だったのでしょうか。
とはいえ、時代に影響されない人生がないというのも、当然のこと。
ノートンはこの「小人の冒険シリーズ」のほかにもいくつか作品を残していますが、彼女の生き方は作品にも影響しているように思います。
この世は舞台、男も女も役者にすぎぬ
という、シェイクスピアの『お気に召すまま』の有名なセリフを思い出しました。
はじめて『床下の小人たち』を読んだわけですが、正直なところ「なんだろうこれ」と思いながら読んでいました。
なんというか、全体的に”ごちゃごちゃしている”という印象が強かったのです。
主人公のアリエッティと男の子の交流によってなにかしらの事件が起こるとか、冒険を通して成長するとか、そういうものをイメージしていたからかもしれません。
たしかに、事件は起こりました。
そのせいでアリエッティの家族は移住を余儀なくされます。
成長もありました。
アリエッティは、世界が思ったよりも広いことを知ります。
でもなんというか、それよりも、出来事の一つ一つ、場面の一つ一つに重きが置かれていたように思います。
たとえば、アリエッティの母親のホミリーは、いわゆる”心配性の母親”で、『高慢と偏見』のベネット夫人のようにコミカルです。
夫のポッドの帰りが遅いことを心配したと思ったら、ポッドは一番の借り手だからヘマをするわけないと言ってみたり、草原の向こうへ移住していった親戚の噂話をしては、「あんなところに住むなんて、考えたくもない」と言ってみたり、とにかく口と行動が忙しいのです。
ポッドはといえば、妻の不安をなだめたりそこそこに同意したり、話半分に聞き流すのが上手。
アリエッティは、外の世界に憧れているのかといえばそうでもなく、でも借りには興味があって、床下の生活がなんとなくつまらないなと思っている程度で、冒険心に溢れた主人公、というタイプでもありません。
そして、アリエッティが男の子とであったことで、一家の生活はがらりと変わりますが、これまた唐突に、移住(というより避難)を余儀なくされてしまいます。
その唐突なことといったら。
問題が解決するわけでもなく、乗り越えようと努力するわけでもなく、あっけなく物語が終わってしまいます。
読み終わったあと、なんとも不思議な気持ちに包まれたのですが、作者のノートンが舞台女優だったというのを読んで、そして戦争によってあちこち移住した人だと知って、なんとなく納得しました。
この作品は、あまりにも視覚的というか、舞台向きなのです。
メイおばさんとケイトの会話から、メイおばさんのおとうとが小さい時に体験したこと、として語られる導入は、舞台上で小人の物語へ観客を呼び込むきっかけになります。
人間のものを借りてきて、自分たち用の生活道具にしている小人の住まいは、みていて楽しいはずです。
銀貨がお皿になっていたり、安全ピンが南京錠がわりだったり、針と糸で高いところをよじ登ったり。
観客である子どもたちが普段目にしているものが、全く違う用途で使われているのは、おもしろいものです。
自分だったら、ポケットに入っているこれをどう使うだろう、そんなふうに想像力が湧きそうです。
ホミリー母さんのやかましさは、舞台上ではちょうどいい道化役になります。
あっちでわたわた、こっちでわたわた、何でもかんでも心配して、ポッドやアリエッティに「はいはい、そんな心配しなくても大丈夫だよ」と適当にあしらわれると、相対的にアリエッティが大人びて見えるでしょう。
そうやって考えると、ごちゃっとした場面の集積に見えた物語が、とたんに生き生きしてきます。
物語が、ある意味でブツ切りのように終わってしまうことも、最後に再びメイおばさんとケイトの場面に戻ってくることを考えると、舞台としてうまく成立しているように思います。
ノートンは、舞台女優として体得したそういう舞台の間合いを、作品にも盛り込んでいたのでしょう。
ラストがあまりにも唐突なことも、戦争経験のことを思うと、ノートンなりのリアリティなのだと感じます。
最後、小人の存在が家政婦のおばさんにばれて、警察やらネズミ駆除やらが一家を襲います。
彼らは、あれほど嫌だと思っていた草原の向こうへ避難せざるを得なくなり、取るものもとりあえず、大慌てで逃げ出すことになります。
そしてその顛末を、物語の証言者となる男の子は、見届けることができずに屋敷を出てしまっているのです。
戦争は突然やってくること、逃げるタイミングが予想とずれること、友人の安否がわからないこと。
そういったことを、ノートンも経験したのかもしれません。
アリエッティ一家がどうやら無事らしい、というのは、憶測でしか語られません。
もちろん読者としては、その後シリーズが続いていることから、無事なことを分かってはいますが、物語の中では曖昧なまま終わるのです。
人生は、というのは大袈裟かもしれませんが、生活というのは、起承転結があるとは限らない、あったとしても、転で唐突にとぎれるかもしれない。
そんなリアリティを感じさせる幕切れです。
物語を読むのに、作者のことや時代背景を知ることは、必ずしも大切ではない、と私自身は思っていますが、知ることによって作品の解像度があがるのもまた真実だな、という読書体験でした。
感想がメタによってしまいましたが、タイトルに引用したアリエッティの台詞は、作品中で一番印象的でした。
アリエッティの知る世界では、人間は借り暮らしやの生活に必要なものを提供する装置で、人間にもそれぞれの生活があるとか、そういうことは彼女の頭にはありません。
それを言われた男の子は、人間は世界中にたくさんいて、借り暮らしやのためなんてことはない、と主張しますが、たぶんふたりの視点が交わることはないでしょう。
ひとはそれぞれ、自分が世界の常識だと思って生きています。
人間にしても、この世界は、地球は、人間に必要なものを提供するためにあると思って、生きています。
地球上にあるものは、どうにかして人間に便利なように作り替えて活用します。
自然界から見たら、人間の生活もまた、借り暮らしやの家のなかのように、滑稽でおもしろいものなのかもしれません。
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