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今の私が一番キレイ

私の父は、歯が無い。

父は生まれてすぐに親元を離れ、坂のきつい田舎の養護施設で育った。
母と結婚するまで家族と暮らしたことはなかった。その期間およそ30年。寡黙で不器用な父は、養護施設での生活を詳細に話してくれることはない。でも、家族の愛情を受けてすくすくと育つ弟への態度を見ていると、定年をとうに過ぎた今でも、幼き傷が疼いているのが伝わってくる。

入浴や歯磨き、洗面などの衛生観念というものは、毎日の生活の中でその必要性を心地よさとともに体感することで身に着いていくのだと思う。
衣食住とは違って、お風呂には入らなくとも自分自身が困ることはさほどない。歯磨きも同じだ。丸一日歯を磨かなくても生活に支障が出ることは少ない。それどころか、歯磨きをサボりすぎて歯が痛むことがあっても、治療してもらえば痛みは消えてしまう。面倒だから・時間がないからという理由で歯磨きをしなかったり、手を抜いたりする人は少なくないのだと思う。
自分の身体を清潔に保とうとする行為は、自分自身を愛しむ行為であると思う。父は20代で総入れ歯になった。親の愛情を感じられずに育った父は、自分自身に手間をかけ、愛することが下手であった。その結果の総入れ歯だとすれば、さほど驚きもしない。

そんな父をもつ私は、母から歯は大事にするようにと何度も言い聞かされて育った。小さい頃は「歯磨きはしたのか」と毎日確認されるような生活だった。母も年頃に交通事故にあって前歯をなくしていた。
幼稚園の入園先を決める際も自分の意見を主張するくらい、幼いころから意思がはっきりしていた私は、人から何かを言われてその通りにすることが嫌いな子だった。歯磨きも、母から口うるさく言われるほど「嫌なこと」になっていた。

それでも幸いにしてこれまで大きな虫歯ができることはなかった。小さな虫歯を治療したことは何度かある。歯科は一度かかると治療が終わるまで定期的に通わなければならないうえ、定期健診を受けるようにも言われる。

私は大学進学で地元を離れたが、実家には半年ごとに定期健診の通知書が送られてきていた。受け取った通知書が何通目かになったとき、「これ、いつまで行かなきゃいけないの。死ぬまで通えってこと?」と母にきつくあたってしまった。
「じゃあそう先生に伝えておきます」と言った母の怒りに混じった悲しそうな声を今でも覚えている。

それまでの私は、朝晩歯磨きをする習慣はついていたものの、口腔内の健康にはわりと無頓着だった。歯磨きといっても形だけ歯ブラシで手早く力任せに磨くだけ。思い返せば、私も自分自身をケアすることはあまり得意ではなかった。
そんな私が歯磨き習慣を見直すターニングポイントは、2度あった。

1度目は、社会人になって数年後、激務部署の生活でストレスから無意識に噛みしめる癖がついたのか、知覚過敏になってしまったときである。
冷たいものを食べると歯がキーンと痛む。ひどいときは冷たい外気を口から吸っただけで歯が痛む。痛みを自覚してすぐ「ひどい虫歯になってしまったのではないか」と思った。
歯科に行くと虫歯ではなく知覚過敏とのことだった。夜間にはめて寝るマウスピースを作ってもらい、歯磨きを歯科医が勧める某メーカーの商品に変えた。歯科にかかったのは5年以上ぶりだった。痛みも伴わない程度の軽い虫歯も見つかったので、何度か通って治してもらった。

知覚過敏は治らないということだったが、ひどい虫歯でないとわかりほっとした。そして、この数年間の間に虫歯ができていたことを反省し、「もう今回のような不安な思いはしたくない」と思い、昼食後も職場で歯を磨くようになった。

2度目のターニングポイントは、新型コロナの流行だった。
大好きだった海外旅行は行けなくなり、毎日マスクを着用しての生活になった。いつになったらマスクを外し海の外に遊びに行けるのか。終わりの見えない日々が続いていた。仕事の責任も増え、思うように気晴らしができなかった。その結果、心身の調子を崩してしまった。
このとき私は自分の心身の状態に真剣に向き合った。そして自分の心と身体の声を聴くこと、自分を労わるということを学んだ。職場に配慮してもらいながら、数か月で仕事に復帰した。
今までであれば思いつかなかったと思うが、この間で自分をケアすることを学んだ私に、海外旅行に代わるお金の使い道として「歯列矯正」という選択肢が浮かんだのは自然なことだった。

マスクをつけての生活は少なくともあと1~2年は続きそうだった。今なら装置のついたぎょっとするような顔を見られずに治療が進められる。これは始めるのにちょうどよいと判断した。
世の中同じことを考える人が多かったようで、あれから矯正器具をつけている人に会う機会が増えた。初めて矯正歯科にカウンセリングに行ったときも、歯科助手の方が「最近増えているんですよ」と言っていた。

診断は「開咬・上下顎前突」。実は知覚過敏の際に受診した歯科でも、前歯がかみ合っていないことを指摘されていた。ただしこのときは軽度だからか直す必要性までは言及されなかった。
しかし噛み合わせが専門の矯正歯科医によると、「開咬」という症例は将来的に歯を失う可能性が非常に高く、最も良くない噛み合わせということだった。幸い顎骨そのものに異常はなかったので、外科手術は必要とせず矯正器具での治療が可能とのこと。その場で治療を受けることを勧められた。

その後、下顎の位置を正す治療をしたり親知らず含め何本も抜歯したり、ということを重ねて、初診から約1年後にようやく上下の歯に矯正装置がついた。その後も上あご4か所にスクリューを打ったり、アーチ状の器具がついたりと、とにかく口の中はひっちゃかめっちゃかになっている時期が長く続いた。
今も治療は継続中だが、悩んでいた口元の突出感は驚くほど改善され、前歯でうどんが噛み切れるようになった。

歯列矯正を始めて、この歯列の変化以上に大きく変化したことがある。それは、日々の口腔ケアに対する意識だった。
矯正器具をつけると歯磨きがしにくくなり、虫歯のリスクが非常に高まるという。仮に一度虫歯ができた場合には、虫歯の治療を優先するため矯正治療が中断してしまうという。
知覚過敏の一件で虫歯は嫌だったし、ただでさえ長期戦の治療が虫歯のせいで長引くのはもっと嫌だった。最短で終わらせたい。そのためには、絶対に虫歯になってはならない。

そこで、歯科でのアドバイスやインターネットの情報を駆使し、私は鉄壁の虫歯対策チームを作り上げた。歯列矯正を初めてから今まで、ずっとこのメンバーで頑張ってきた。

①歯磨きの前に食べかすを洗い流すための、某有名国内メーカーの「超音波水流洗浄機(自宅用と携帯用の2つ)」
②歯間に残る食べ物と歯周ポケットの掃除にには「フロス」
③スクリュー周りや抜歯した歯の周りは「タフトブラシ」
④ブリッジ周り全体的に使用する「歯間ブラシ」
⑤仕上げは歯科でも使用している「薬用マウスウオッシュ」でうがい
※最初の頃は「歯垢の染めだし液」も使っていたし、もちろん通常の歯ブラシでの歯磨きもする。
加えて「月1回の一般歯科での虫歯チェックとクリーニング、フッ素塗布」も。

この最強メンバーで落ちない汚れはない。矯正期間中は避けたくなるようなえのきや長ネギなど、繊維質のものや細くて絡まるような食品も気にせず食べることができる。
もちろん、この間虫歯が発見されたことは一度もない。それどころか、歯科に行くたびに「磨き残しはほとんどない」「歯磨きスキルがすごい」「こんな綺麗に磨けている人は初めて見た」などと言われるようになった。
定期健診の通知で母に八つ当たりをしていた自分が、今や進んで歯科に通っている。当時の自分が知ることがあれば、驚いて腰を抜かすに違いない。

歯列矯正を始めるとどうしても磨き残しが出てしまい、汚れが目立つようになるというが、むしろ私はこれまでの人生で今が一番綺麗な歯をしている。
特に①の商品は、矯正器具を使う前から使用し始めたのだが、これを使ってからは歯茎の色が明るくなり、きゅっと引き締まるようになった。水流の強度も最初は4では痛くて当てられなかったが、今は最大出力の10でも全く痛くないほど、歯茎が丈夫になっている。これは歯列矯正をしていない人にも是非おすすめしたい。

歯磨きに無頓着だった子どもは大人になり、自分自身をケアする力を身に着けた。今や「綺麗な口元」という「外見の美しさ」だけでなく、「綺麗な口腔環境」という「中身の美しさ」も手に入れた。自分を誇らしく思う自分にも出会えた。
母の言いつけから30年。「あなたたちの娘はきちんと歯磨きができるようになったよ。自分を大事にできる人間になったよ。」と伝えたい。

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