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『呪術廻戦』が終わった世界を生きる
呪術廻戦が終わった。
仰々しいタイトルにしてしまったなという反面、自分の人生の中で毎週ジャンプを読むということの特別さを鑑みると、あながち遜色ないようにも思える。
自分は確かに呪術廻戦を毎週楽しみに読んでいたわけだが、距離感としてはそこまで前のめりではないように思われる。
要するに、呪術廻戦に耽溺したという思いはない。何なら、死滅回遊の途中は読み飛ばしているし、新宿決戦の最終局面はうんざりしながら読んでいたと記憶している。
考察を楽しんだこともない。
別に偽夏油の中身が誰であろうと関係ないし、最後の宿儺の指が〜とか、釘崎が生きてても生きてなくても、百億呪霊がどうなるかなどとあれこれ考えることはなかった。
むしろ、そういったことばかり垂れ流すSNSの投稿や動画などに辟易していた。この漫画にはそのような考察が適切ではないと考えていたためであろう(なんなら野暮であると考える)。
キャラ萌えもしなかった。
好きなキャラクターは無数に存在するし、それらの関係性もとても好みだ。なので、連載が終わってしまい、寂しさを多少感じることもあった。
とはいえ、特定のキャラクターが自分の人生を狂わせるほどに魅力を放ったかと言われれば、そうとは思えない。結局のところ、話がキャラクターを振り回していた印象なので、感情移入することはなかった。
(この点はヒロアカや鬼滅と逆の印象を受ける。これらの作品では逆に、作者が過剰にキャラに感情移入させようとしている感じがして、食傷気味になってしまった)
なんだかつらつらと書いているうちに、自分は本当に呪術廻戦が好きなのか不安になってきたが、少なくともこの記事をまとめようと思うほどには楽しんだ作品であった。(五条vs宿儺など食い入るように読んでいた)
それは、この作品には作者が色濃く出ているように感じるからである。
自分は「私小説」が好きだ。作者が何かを言っている作品にばかり手が伸びる。歴史を勉強しているからだろうか、何らかの作品から誰かの息吹を感じる時に、幸福を感じる。対話している感覚が心地よいのだ。
それでいうと、この呪術廻戦という作品を読めば常に、芥見先生が何を言いたいのか、何にハマっているのかを肌で感じることができた。
「呪術廻戦の物語」と「芥見下々という人間」、そして週刊連載のライブ感、これらが最高潮にかけ合わさることで疾走感が生まれる。そして読者の脳汁が出る。
週刊連載の少年漫画でありながら、私小説でもある。
これこそ、自分が考える呪術廻戦の魅力である。
今回は、「虎杖悠二とは何だったのか?」という論点を軸に据えながら、「私小説」としての『呪術廻戦』を論じてみようと思う。
◉オマージュの器
まず思うに、虎杖に重なるのはジャンプで初の連載を持つ「芥見下々」そして、「現在のジャンプの読者」ではないだろうか。
呪術廻戦について語る際に、避けては通れないのが、そのオマージュの多さだ。特に比較に出されるのがNARUTO、BLEACH、HUNTER×HUNTER。要するに、芥見世代から我々世代(30代前半から20代後半)の愛してやまない「あの頃のジャンプ」である。
虎杖は百葉箱を開けて、両面宿儺の指を食べ、呪力に目覚める。
2018年の連載開始時、明確にジャンプという雑誌は世代交代の谷間にあった。芥見先生はもう一度、今のジャンプで「あの頃のジャンプ」をやろうとしたのではないだろうか。
一方で、呪術廻戦からは明確にワンピースの匂いを感じないのも面白い。
絶対王者であり続けているという点は五条悟に重ねられるのかもしれないが、作品の根幹の部分でワンピースが継承されているような印象は全く受けない。ワンピースは「あの頃のジャンプ」というよりもむしろ、現在進行形でジャンプを看板を張り続けているという点では、未だ特級呪物にはなっていないのかもしれない。
さて、そうすると、この作品の骨格そのものを象徴するのが虎杖悠仁であったと考えることもできるだろう。
宿儺の器、まさに芥見下々の「好きなもの」の器として呪術廻戦は、オマージュを推進力に物語を紡いでいくことになる。
(虎杖への死刑宣告は、「打ち切り」「物語の終幕」のメタファーと読むことができるだろう)
◉作品そのものが背負う「呪い」
そして、虎杖と呪いについても、触れなくてはならない。
正直、回収されない伏線なので、言及してもどうしようもないのだが、やはり爺ちゃんからかけられた最初の呪い、「人を助けろ」「大勢に囲まれて死ね」は印象深い。自分で自分に「この作品はヒットしなくてはならない」と言っているようなものである。
少々視点を変えれば、芥見先生のルーツも関係しているのかもしれない。
ジョジョリオンの第1巻の中で、荒木飛呂彦は震災が東北にもたらしたものについて「呪い」という言葉で表現した。連載が開始したのは2011年6月、あまりにも震災直後のことであったためか、記憶に残る文言であったのをよく覚えている(これは「呪い」を解く物語)
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自分は生粋の東京人なので、実際の被災地の方々の気持ちを不用意に推し量ることは避けたい。
しかしながら、やはり「呪い」がテーマの作品である以上、ジョジョリオンとの互換性は意識しておく必要があるだろう。
(呪術廻戦でも頻繁に作者の故郷である東北がクローズアップされる)
あの時、人々を縛り付けた「呪い」は今も確かに日本に残存している。
「あ、この国はもう終わりなんだな」という感覚はとりわけ芥見世代・自分たち世代に染み付いていると思うのだ。
したがって、この作品には宿る猛烈なエネルギーはあの時蓄積された痛みや悲しみ、怒りの反動のようなものを間接的に示しているように思われる。
呪いが人を縛り付けるというのもまた、現代ならではの問題意識であろう。「良い人生を送って欲しい」「立派な人間になってほしい」、親たちの願いや、「出世する」「金持ちになる」「かっこよくなる」「賢くなる」、自分たちの願いは、ともすれば、自分を縛る呪いとなる。
呪術廻戦では、術式の内容を開示することでその効力・威力が拡張するという、いわば「制約と誓約」が存在する。
口に出すことで、自ら明示することで、呪いはより強くなる。
当初、呪いを祓うことが目的であったこの作品が「大勢に囲まれて死ね」(大ヒット、大団円を迎えろ)という冒頭の呪いに苦しめられたのは何とも皮肉なことである。
※「俺みたいにはなるなよ」が示すものまで考え出すと尚更意味深である
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◉空っぽの主人公
人外魔境新宿決戦における虎杖の位置付けも非常に興味深い。
リアルタイムの感覚としては、いわゆる「セルゲーム」のように、悟空こと五条先生の退場→やられていく仲間たち→悟飯こと虎杖覚醒の流れなのかと推測していたが、徹頭徹尾、この主人公は黒子の役割であった。
(宿儺にも「興が湧かんのだ」と一蹴されている)
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X等のネットの反応も、リアルタイムでは、虎杖に対するネガティブな評価に溢れていたように思われる。(どうせ虎杖が最後に覚醒するのだろうという想定もそこにクロスオーバーしていた)
芥見先生自身も、この主人公をどうしたものかと苦悩していたのではないだろうか。
最終決戦の推移は、まさに「行き当たりばったり」なもので、急旋回の連発であったが、特に虎杖周りの描写には一貫性が乏しい。
一貫性が乏しい、要するに、最も物語に振り回されたのが虎杖であった。
ここでの虎杖悠二は、目下『呪術廻戦』を連載する芥見下々本人であり、そのように考えてみると、宿儺はまさに怪物に育った漫画『呪術廻戦』とその読者(信奉者 or かつての信奉者)と言えるだろう。
「興が沸かんのだ」は、タイムライン上に溢れる読者の投稿を象徴してさえいるように思われる。
少年ジャンプの看板漫画『呪術廻戦』を完結させる。
虎杖(芥見)に課せられた最後の任務であったが、深く突き刺さった1本目の矢(五条悟による捨て身の虚式「紫」)と対照的に、矢継ぎ早に放った2の矢、3の矢が悉く叩き落とされていったのは本誌で追っていた読者にとって明白であった。
(正直、鹿紫雲や日車が対宿儺戦に与えた影響は大きなものではない)
作中で虎杖悠二は、宿儺の器という役割を、結局のところ、破棄させられた。
オマージュの器として、詰め込むだけ詰め込んだ結果、作品そのものがひとりでに歩き出してしまったというところだろうか。
残ったのは空っぽの器のみである。
さて、これでどうやって『呪術廻戦』を終わらせることができるのか。
この主人公でどうやって宿儺を倒せば良いのか。
芥見先生の苦悩がどれほどであったか、凡そ斟酌しかねる。
結果的に、一時的な主人公の交代(虎杖→乙骨)によって、その場を凌いでいくわけだが、そもそも虎杖という主人公そのものの造形に対する問題すら感じてしまう。(乙骨自体、0巻で役目を終えたにも関わらず、である)
なお、乙骨のメタファーを考えてみると、短期連載を書いていた頃の「かつての芥見下々」に命を救われた形と言えるだろうか。
◉主人公の再設計と死、「みんなの虎杖悠仁」へ
「かつての自分」こと乙骨憂太に命を救われた連載中の「現在の芥見下々」は、ここから数週間をかけて、主人公の再設計を試みる。
虎杖悠仁に対する”中身の詰め替え”である。
ここまで来るともはや設定も何もないのだが、一応、作中内で幾つか虎杖に仕掛けられた伏線が存在した。
(もっとカタルシスのある回収方法が存在したような気がしなくもないが)これらを総動員する形で、主人公虎杖は再び戦線復帰している。
ちなみに、虎杖を「芥見下々」と置いてみると、ここで『呪術廻戦』という物語は二つに分岐したと考えられる。
すなわち、
両面宿儺→ 作者自身が思うような形で完結する「芥見下々の呪術廻戦」
高専陣営→ 読者が望む展開で完結する「みんなの呪術廻戦」
この対決の構図になっていくのだ。
現に、芥見はここから、読者(ないしはネットの声)に過剰に呼応するように『呪術廻戦』を完結へと導いていく。
(自分としてはこの辺りから、若干辟易していたことを思い出す)
結局、芥見先生が最後に虎杖に詰め込んだのは、読者の期待(ネットの声)であった。虎杖悠仁の事実上の「死」と言っても良い。作品そのもののオリジナリティの限界とも言えるか。
商業創作物とは、難しいものだと常々思う。
売れなくては話にならない。そして、読者がいなければ成立しない。
オリジナリティを貫き通すことができない創作を描き続けるというのは、如何なる心地であろうか。
邪推に他ならないわけだが、どうしても自分には、乙骨投入以降の展開が、「当初から想定された」ようには思えない。そして、芥見下々がやりたい放題を尽くしているようには見えない。
観客の前で、笑顔を作りながら踊るピエロにしか見えないのである。
五条悟ですら仕留めてみせた両面宿儺は、確かに『呪術廻戦』の象徴であり、芥見下々の作風を感じさせた。読者の予想を裏切り、感情を刺激していた。心を掴み、動かしていた。
皮肉なものである。
その怪物を仕留めるはずであった主人公は役に立たず、作品の犠牲になってしまった。結果、やはり、宿儺にとって「興の湧かない」、”読者(ネット)の欲望の塊”として虎杖悠仁が物語の幕引きを務めることとなる。
確かに、とんでもない秘密を持ち、覚醒して宿儺を倒すのが「みんなの虎杖悠仁」であった。
しかしながら、後になって振り返ると、それは本当に「みんな」が見たかったものであっただろうか。
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五条悟が真っ二つにされた衝撃とは真逆の感想がそこにあったことはいうまでもない。
……書いていて、本当に自分はあのライブ感が好きだったのか不安になってきた。
とはいえ、リアルタイムで読む分には脳汁タラタラであったので、いわゆる「ドラッグ」として、「みんなの虎杖悠二」化はある意味成功したのかもしれない。(後になって振り返ると、なんともジャンキーに作品の消費をしていたことか)
◉そして、再びオマージュへ
読者の想いの器として、宿儺を追い詰める虎杖(こと芥見下々)
シメに持ってきたのが、虎杖悠仁の領域展開。
辟易した思いの中で、自分の中に再び『呪術廻戦』の焔がたぎってきたのは、ここからの展開である。
ここに来て再び、芥見先生は原点に回帰し、虎杖を自らの好きなもの、つまりはオマージュの器に作り直したのである。
突如として現れた鉄道、芥見先生の地元の風景……シンエヴァンゲリオンそのものであった。(その後、復活する釘崎も、モロ「アスカ」であった)
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これが最高に良かった。
芥見下々が愛してやまなかった「あの頃のジャンプ」と並んで、自らの愛するシンエヴァのオマージュでとどめを指す。
一度は「みんな」のものとなった『呪術廻戦』が、最終的に再び芥見先生のもとに戻ってきたように思えた。ここに自分はえも言われぬ嬉しさを覚えた。
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「やりたいようにやる」、これがこの作家にぴったり来るのだと思った。
あまり無粋なネタバレはしたくないが、最終巻のあとがき部分を読んでも、芥見先生は『呪術廻戦』というこの特級術物と対峙しながら、相当に消耗していたことが窺える。
釘崎、真希・真衣、小沢優子周りの描写を見ても、人間関係の持つ生臭さや、ボディブローのように蓄積する人の微細な痛み(呪い)を掬い取るのが上手な部分からも、この人が相当に繊細で人間というものについて考えてきたことが見て取れる。
このあたりが、自分たちの世代として親近感を持つ所以なのだろうか。
冨樫義博ならば、好き放題に自分のペースで描くことを選ぶだろう。
岸本斉史、久保帯人であれば、読者を置き去りにしながらも、自分の作品を自分の思う終わりへと連れていくだろう。
そして鳥山明や井上雄彦こそ、ぶれない芯の強さを持っているように思われる。
恐らく、芥見下々は違うのだ。彼にとって、読者の声は「ジャンプの看板作家」として無視できるものではなかったのであろう。
時代もそれに拍車をかけている。
SNSトレンド時代に、読者を置いて一人旅というのは、よほどの精神の強さがないと成し得ない。
あまつさえ、初の長期連載である。しかも、それが看板作品だ。
いわんやなにをや、というやつである。
さて、そんな読者の無数の声に振り回され、傷つけられた作者が最後に回帰する場所として選んだのは、かつてこの作品の根幹となった「オマージュ」であった。
(宿儺の「御厨子」の能力は、誹謗中傷の声のメタファーと重なるように思われる。そうすると、最後まで傷だらけで立ち向かった虎杖が重なるのは….)
さながら庵野秀明がモヨコに腕を引かれながら駅の外へ出ていくように、自分の故郷を宿儺(伏黒)に案内する虎杖
紫陽花の名前のくだりや、ザリガニ釣り、祖父との思い出
読みながら、涙が流れていたのをよく覚えている。
寂れていく商店街と大規模商業施設の話は、変わりゆく故郷に想いを馳せながらも、ジャンプという雑誌の紙面の移り変わりに対する芥見先生なりの思いのようにも読み取れる。
いつまでも「あの頃のジャンプ」ではないし、移り変わることに疑問は抱かない。自分が満足できるようなものであり続けていなくても、「まあそうだろうな」と受け止めるしかない。
上記の描写が郷愁と共に、深々と読者の心を刺激する一方、
虎杖による「自分の役割」、「人の命の価値」への総括はこの『呪術廻戦』という作品を書き終える作者の独白として、強烈に紙面の向こうに訴えかけてくる。
「その人を形作る思い出よりも、小さな記憶の欠片がどこかを漂っているだけで、人の命に価値はあるんだよ」
「人間は道具じゃないから 生まれた時に役割が決まってるわけじゃない」
「だからせめて知ってもらおうと思ったんだ。オマエが価値を見出せない、オマエ以外の人間の事」
大ヒットして、大団円を迎えろ
この作品が抱えた呪いに対する作者自身の結論がここには見え隠れする。
つまり、作品の価値は「売れるか、売れないか」ではないのだ。
どこかで記憶に残れば、その作品はこの世に生まれ落ちた意味を得る。
芥見下々は、改めて、自分がやりたいように、たとえ読者がそれを望まなかったとしても、作品を終幕させることを決めたのであろう。
◉両面宿儺の救済と百葉箱の中の『呪術廻戦』
最終的に宿儺は、虎杖との共生を拒んで、滅びを選ぶ。
魂の循環の中で、真人は宿儺の人生を「復讐」であると表現する。
ここでの宿儺はやはり、『呪術廻戦』そのものと重なるメタファーを感じさせる。
「復讐」とは、「あの頃のジャンプ」作品への回帰ということになるであろう。
違う生き方を選ぶきっかけが二度あった、という点は、我々読者には知り得ないが、『呪術廻戦』には二度ほど、作品自体の方向を左右する出来事と決断があったのではないだろうか。
最終的に、終わりを導いたのは虎杖悠仁(芥見下々)であった。
『呪術廻戦』に魔人ブウ編はなかった。
ここが終わらせ時なのだと、芥見先生自身が、読者(ネット)の声に抗った結果なのかもしれない。
作者の思うタイミングで終わりを迎えることは、作品にとっての「救い」のように思われる。
結局のところ、両面宿儺の魂は虎杖悠仁により救済されたのであろう。
また、五条悟の回想での台詞は、読者へのサービスでありながら、作者自身の『呪術廻戦』への総括になっていると思われる。
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この言葉を作者が述べているにもかかわらず、このような論評を書いているのは、不届極まりないと思わなくもない。
とはいえ、やはり、私たちは『呪術廻戦』のことを忘れられないし、毎週のあのワクワク感を懐かしむ。こうやって振り返って楽しみもする。
最終的に百葉箱に納められた宿儺の指は、まるで作者の本棚に納められた『幽☆遊☆白書』であり、『NARUTO -ナルト-』であり、『BLEACH』であるかのようだった。
そして、私たちにとっての『呪術廻戦』であろう。
やがて、未来の新人作家が「あの頃のジャンプ」を懐かしんで、その扉を開ける日を待っているのだ。
さて、呪術廻戦が終わった。
自分はこれから、呪術廻戦が終わった世界を生きなくてはならない。
週刊誌を紙で読む楽しさは、積まれた雑誌を大掃除の日にまとめながら、読み返すときであろう。
自分は20代の半ばのほとんどを呪術廻戦と過ごした。
これは間違いなく平坦な日々ではなかった。苦しいことを幾度となく味わった日々であった。そんな人生の中に、呪術廻戦の欠片が散らばっている。
五条先生には怒られてしまうかもしれないが、やっぱり自分はこの作品について忘れることはできない。
間違いなく、日本一の漫画雑誌を支えた看板漫画であり、歴史に残る作品であったと言わざるを得ない。
誰かの呪いが、救いへと転じることを願って