見出し画像

『福田村事件』映画感想文

公開中の映画『福田村事件』を鑑賞してきました。

映画館に向かう道の途中で、上を見上げる人がたくさんいて、何かと思ったら、銀座和光の時計盤がミッキーマウスになっています。

今年2023年は、ディズニー創立100周年でもあり
関東大震災から100年でもあり
もし祖母が生きていたら100歳でもありました。

【あらすじ】1923年9月1日に発生した関東大震災から6日後、千葉・福田村で9人の行商団員が殺された事件を題材に、朝鮮人を含む“善良な人々”が虐殺された日本の負の歴史が描かれる。

公式サイトより

映画で印象的だったシーンは、田中麗奈が演じる妻が、井浦新演じる夫に『あなたはいつもみているだけなのね』と一喝したことと、水道橋博士らが演じた自警団達がやらかしたことに対して、あっさり人のせいにして膝から崩れるシーンかな。


両国国技館に程近い、東京都墨田区に関東大震災と東京大空襲で亡くなれた御遺骨を安置している東京都慰霊堂があります。

この場所にはじめて訪れたのは、小学校の社会科見学でした。堂内には震災の状況を描いた大型絵画、戦時中の写真などを展示しています。当時まだ低学年でしたが、展示された絵画を見て、こんな地獄がこの世にあるのかと思ったことを、今でも鮮烈に覚えています。

映画『福田村事件』で描かれていたような、震災の混乱の中「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」などのデマが流され、自警団や警察に多くの朝鮮人や中国人が虐殺された事件のことや、共産主義を唱えた日本人が虐殺された亀戸事件のことを、地元に住んでいながら知りませんでした。

関東大震災から100年というテーマで、NHKのクローズアップ現代や、TBSの報道特集などメディアで取り上げられて、はじめて知ることになりました。

子供だった頃(40年前)朝鮮人や部落に住む方に対して、差別的な発言をする同級生は多くいました。地域でこの話が浸透しなかったのは、当時朝鮮人に対するデマが事実として、信じられていたからかもしれないし、デマだと解かっていても、地域の黒歴史をわざわざ積極的に公にする必要はないという判断が政治的にあったのかもしれないですね。

丁度、映画を観に行く前に『学校で数学を学ぶ意義』について書かれたNOTEを読みました。とある有名な実業家さんが『学校で数学を学ぶ意義は論理的思考力を鍛えることにある』と語られていたことに対して、異議というか、『仮定を用いる際の前提が大切』ということを書かれた記事でした。

その記事を読みながら、数学の方程式につまずく子供について、養老孟司さんが語ったことを思い出していました。

中学の数学問題で、『A=Bと仮定する』や、『X=A×Bとする』とう仮定値を使う問題がありますが、なんでAとBは違う文字なのに同じとして扱うことができるの?とか、数字は文字と同じ様に扱っていいの?という疑問を持ち、数学の条件にひっかかる子供がいるそうです。この考えのことを屁理屈ではなくて、文字という概念と、数字という概念のぶつかり合う、感覚なんだと仰っていました。

AはAなんだから、Bじゃないという感覚を持ったまま、A=Bと仮定値を使用することは、自分の持っている感覚を、概念を壊すことになる。

つまりA=Bが通るなら、世界は何でもありになってしまう。それはこんな汚いことはできないという倫理に通ずるというお話でした。

日々感覚的になんだか違うと思っても、その感情を飲み込みこんで、物事を進めてしまうことはあります。その事象が『自分の持っている倫理観を壊されいる』という自覚がなかったので、その感覚に倫理という名前がついて、ハッとしたというか、ほっとしたような感覚がありました。

この映画は、狂気の世界になったとき、自身の正気(倫理)を頼りに世界に向かう難しさや危うさを、わかりやすく表現していて、深く倫理というものを考えさせてくれるよき作品でした。

仕事で支柱を支えるアンカーボルトの耐力を計算するのに三次方程式を使っています。仮定値がないと計算を解くことはできません。暮らしの関わるあらゆる事に仮定は必要です。仕事で使われるような方程式の仮定値は、先人がすでに実証実験による検証も済んでいるので、仮定値はかぎりなく事実に則した近似値です。しかしその仮定値が本当に正しいと、個人それぞれが検証して向き合うことは、とても大変で時間のかかることです。だから世界は大きく括った仮定の方向へ進みがちです。その方がずっと楽だからです。

もし仮定した前提が間違っていれば、その答えは違うものになってしまいますし、検証が行われなければ、答えが正しいかも解らない世界です。だからA=Bと仮定しても、A≠Bではないかもしれないと思う感覚はいつも持つことが大切という意見に賛成です。

たとえばAちゃんとBちゃんが楽しそうに話していて、
Cちゃんはふたりは友達だと思って
Dちゃんにふたりは友達だって伝えたとします。
AちゃんとBちゃんが本当に友達かどうかは
AちゃんとBちゃんそれぞれ本人しかわかりません。
でもDちゃんはAちゃんとBちゃんは友達だと信じるでしょう

だからなんだ?って話ですが、この事象がどんなベクトルで起きたのか、Aちゃん・Bちゃん・Cちゃん・Dちゃんが、それぞれどんな想いを持っていたのかを想像する(イメージする)ことは、倫理を語るうえで一番重要かもしれないと今回思ったのでちょっと書いてみました。
道徳とは異なることなので。

このテーマはもう少し知りたいので、報道特集で紹介していた映画監督の黒澤明氏の自伝のようなもの『蝦蟇の油』を読んでみたい。


【おまけ】
映画の中で田中麗奈が演じる妻が何度も『銀座若松のあんみつが食べたい』という台詞を連呼するもので、あんみつが食べたくなりました。

銀座若松

若松さんは明治27年創業の甘味処で、あんみつ発祥のお店です。母はここのあんみつが好きでした。もちろんわたしも好きです。銀座コアの横道からちょっと入った場所にあります。2000年に三宅島が噴火してしばらく、伊豆三宅島産の寒天を食べることができませんでしたが、あの寒天が戻っていました。食べたあとに口の中がふんわり磯の香りの残る寒天です。母は甘味処が大好きで、連れて行ってくれたのは今思うと名店ばかりだったなと懐かしくなりました。もし娘が50代になって、どこか名店のチョコレートを食べたときに、今のわたしと同じように懐かしく思うだろうか?

あれ?
若松であんみつが誕生したのは昭和5年ですね。
ということは
関東大震災のときにはあんみつは、まだありませんね。

これもまたA≠Bということですかね?
でも、映画であんみつと連呼しなければ、今若松のあんみつを食べていないかもしれません。


いつも読んでくださり
ありがとうございます٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集