主語の大小と、主体のおきどころ
主語って難しい、を最近考えている。
主語は主体がどこにあるのかを表すだけじゃなくて、その効力が及ぶ範囲も設定次第で自由自在だから、責任重大なのでは、と。
私は、あえて主語を大きくするときがある。どうしようもなく辛いときに多い。とことん大きくするに限る。
自分の力ではどうにもならない、どうにもできない状況に陥ったら、
ひとって、そうだよね
それでも地球は回ってる
と主語を大きくすることで救われてきた。
解決策が見えない暗いトンネルの中では、そうすることでしか逃げ道が得られなかったのかもしれない。逃げ道大事ってクドカンも言ってました@『俺の家の話』。
私にとって主語巨大化は、簡単お手軽な療法のようなもの。大きな大きなどんぶりに、悲しみも苦しみもありったけ入れてしまって、その中でたぷたぷ、たぷたぷ、とたゆたうことで痛みが和らぐ気になる。イメージは、目玉の上に手ぬぐい乗せて、浸かってる目玉の親父㏌どんぶりって感じで。
解決はしないんだけど、また歩き出す英気を養うこともできるような〜倒れ込んだところから立ち上がるタイミングをはかることもできそうな〜そんな気持ちになる。ナウシカにも、薬湯に沐浴して、いったん体と心を回復させる場面、あったっけ。
これは自分の中だけで完結する話だからこれでいい。
自分以外の人が絡んでくると、話は別だ。
他者と相対するときは主語は最小にする。
私は悲しい
私は怒っている
人に気持ちを伝える時、まぁ厄介なのはそのほとんどが相手に物申す時なんだけど、「私」から始めないとだいたい泥沼化して痛い目に遭う、というか何度も遭ってきた。
↓ 心理学的にこういうことだったらしい。
知らなかった。こういうの大人教習所(仮想)の必須科目に入れてほしい。やれやれマニュアル世代ってこれだから、って言われそうだけど。
自分の感情の揺れ動きを、相手にかぶせるようにして、他人発信にしちゃだめなんだ。あくまでも私が主体で、私の主権が及ぶ範囲内で始めないと。越境で思わぬ反撃を食らったら痛かった過去を持つ私が言うんだから、たぶんそう。
逆に領土を侵されたときは、私も脅威を感じて、高く頑強な壁を建設する。そうやって身を守る。なんなら応戦する。それもそう。
相手に気持ちを伝えるアイメッセージの、さらにその上の激ムズ応用問題が、人から相談を受けた時の返し方なんじゃないかと、近年特に思う。
相手の領域に、ちょい踏み込んだところでやり取りが行われるから、一筋縄ではいかない。単純に主語を私にしただけでは足りない。
私はこうしたよ
私はこう思うよ
と言ったところで、それは私の事例で相手に当てはまるとは限らない。千差万別。人には人の事情があり、気持ちがあり、やり方があり、タイミングがある。
そんな当たり前のことも、わからない時はわからなかったから、
こうすればいいのに
とかってつい言っちゃう。
これで解決するのになぜやらないの
これしかないでしょ
だんだんヒートアップしてくる。相手のことを思っていたはずなのに、いつの間にか相手の懐深くまで突進し、自分の価値観や経験則を押し付けてしまう。
正義感もそうだけど、生まれが善意である行動の暴走って怖い。私が主語だったはずなのに、”良かれと思って”の皮をかぶって、相手のテリトリーにぐいぐい侵食している。
対等な大人同士の関係だと「それはあなたのケースで、私はあなたとは違う」と反論されて、そこではじめて「あ、ごめんなさい」と思うこともあったし、私の持論に相手の顔が微妙に曇っていくのを見て、「出過ぎたマネをしている」と気付くこともあった。
我が子のことは、気付くまでに時間がかかってしまった。他人より境界があいまいなせいもあるのかな。「あなたのため」って大義名分振りかざして、反論もはさませない。大人と子ども、保護者と保護される側、”上から”だから余計に引くことができなかった。
ドラマ『もこみ~彼女ちょっとヘンだけど~』の富田靖子さん演じるお母さん、いわゆる毒親。不安や体裁や見栄がまさって過度に介入する感じ、富田さんああいった妄信的な役すごくお似合い。リアルすぎて以前の自分を見せられているようで、きつくなるくらい。あれほどじゃないって自分では思いたいけれど、それは自分の欲目なのかもしれないし、家族から「お母さんみたい」って思われてないといいな、と内心びくびくしている。富田さん、イヤになるくらい素晴らしい。
話がそれた。
幾多の苦い痛い経験を経て、今またnoteの海で、主語の持つ力の複雑さとデカさを考えている。
主体の範囲がどこまで及ぶのか、言葉一つでテリトリーまでコントロールすることは難しい。侵犯してないかとか、主語を適切かつ適正にチョイスするのも困難だ。いくら気を遣っても遣い過ぎることはないくらい、細心の注意をはらうべきことなんだ。
でも、それでも、時に相手のバリアをかいくぐっても、ふところに飛び込んでしまいたくなってしまう衝動が沸き起こるのもまた人間なのだなぁ、
などと主語を大きくしたりして、ぶつぶつ考えながら、本を読んでいた。
今読み返してみると、主人公もまた、距離感に敏感で、思い悩む人であったのだ、と読解が深まる。
子どもができ、店を開くことになり、否が応にも、自分の人生にたくさんの他人を巻き込んでいくことになる主人公。ときに境界を踏み越えたり、踏み越えられたりしながら、懸命に颯爽と生きていた。