スイムスイミースイミング(創作)
小さいころから水が好きだったらしい。
お風呂に入れると、すぐに潜りたがる。
庭にビニールプールを出すと、いつまでも入りたがる。
水たまりを見つけると、すかさず飛び込みたがる。
「やめさせるのが大変だったのよ〜」と、ママが親戚や友人に愚痴るのを何度聞いただろう。
愚痴を装っていながらまるで大変そうに聞こえないのは、私がこの辺では有名な水泳選手だからだ。スピードだけでなく泳ぐ姿が人魚のようだと人気もあり、ストーカーみたいなファンもいるくらいだ。
「ずば抜けた才能は、小さいころからあらわれていたのね〜」と周囲が言うと、ママは「そうかもしれないわねぇ」と満足気な顔をする。
これまでの私なら、素直にママの満足気な顔を喜んでいたんだけど、最近は少し困っている。これまでスムーズに伸びていた記録が滞りがちなのだ。
県内の記録を次々と塗り替えていくのは気持ちがよかったんだけど、中学に進んでから思うようにならない。
スポーツクラブのスイミングの先生も、中学の部活の顧問も、焦らなくていいと口では言いながら、これまでの泳ぐ動画を確認したり、練習方法の見直しをしたりで、焦っているのが伝わってくる。
私自身はそこまで追い詰められているわけでもないので、対応策はスキルや経験が豊富な先生方に任せて、スタミナをつけるトレーニングやストレッチを増やすくらいにしている。
ママはママでちょっと気にはしているらしく、食卓に並ぶ料理に酢の物が増えた。酢は身体をやわらかくするって信じてるからね。
スパゲッティに酢を入れるくらいは許容範囲だけど、すき焼きに入れられたときは丁寧にお断りした。パパも姉さんも笑ってるだけで何も文句は言わない。パパなんて「なかなか美味しいぞ。すき焼き風の韓国料理」なんて言って、ママから「すき焼きよ!」とツッコまれて苦笑いしてた。
この明るい家族の存在に、私はいつも救われてきた。
それでも、今回の伸び悩みのことは、なかなか家族と話せないでいた。
私は、実はあまり競争や数字に興味がない。スランプという言葉もピンとこない。
ただ、期待してくれていて、良い結果を出すと喜んでくれる家族をガッカリさせたくはないのだ。
そうだ!とひらめいて、私は久しぶりにバッちゃんに会いにいくことにした。
バッちゃんは私が3歳になる前、雨上がりの庭先で葉っぱの水滴と遊んでいるのを見ながら、「こんなに水が好きな子なら、たくさん泳がせてやったらよかろうもん」と勧めてくれて、パパとママがスイミングスクールを探すきっかけを作ってくれた人だ。
いつも大会に応援にきてくれるんだけど、「泳いじょるときの澄んだ目はエエねぇ」と結果のことを言うことがない。私があまり気乗りがしなかった試合は、たとえ優勝していたとしても「スッキリせんかったねぇ」と言う。
酸いも甘いもかみ分けてきたせいか、なかなか鋭いのだ。
プールの清掃で部活が休みになった水曜日に私が尋ねていくと、バッちゃんはすぐにスイカを出してくれた。それから手作りのスイートポテトと、お土産でもらったというずんだ餅も目の前に並んだ。
「好物ばっかりだ。バッちゃん、私が来ることわかってたみた〜い」と言うと、「わかってたさぁ」と笑って、私の横にストンと座るとスッと手を握ってきた。
筋張ってるけどあたたかいバッちゃんの手に安心して、私は少しずつ思っていることを話した。
「泳ぐの好きなだけじゃダメなのかな」
ずいぶん長い間、黙って私の話を聞いてくれていたバッちゃんは、居間の棚の隙間から一冊の絵本を取り出した。
スイミーだ!
私はこの絵本が大好きで、自分の家だけではなく、バッちゃんの家にも置いてもらっていたのだ。小学校の教科書にも載っていたけど、絵本のほうがずっと好き。
懐かしくなってページをめくる。1匹の大きな魚になったページを見て、幼稚園のクリスマス会で「スイミー」の劇をやったことを思い出した。
私はスイミー役ではなかったけれど、みんなで水の中をスイスイ泳ぐ演技は、練習も本番もとても楽しかった。ステージで踏んだステップは面白かった。水面に見立てた布がキラキラ輝いて美しかった。
なんで忘れていたんだろう。
バッちゃんにお礼を言うと、「なーんもしちょらんよ」と言って、また私の手を握った。手から水分が入ってきて身体中に沁み渡る感じ。心がすくすくと健やかになっていく。
やっぱりバッちゃんはすごい。
もう一度お礼を言って、玄関でスニーカーを履いていると、
「好きなことを大事にしてくれると、バッちゃんは嬉しいよ」と声だけが聞こえた。
バッちゃんの家から、まっすぐスイミングクラブへ向かう。先生に私が考えていることを話すと、「優れた才能を活かすには必要なことかもね」と笑ってくれた。
スラっとしたスレンダーな先生だとは思っていたが、涼しげな笑顔が美しくて、思わず「先生ってかなりの美人だったんだ」と口に出てしまった。
「そんなことにも気づかないくらい、余裕がなかったのね」と、今度は大笑いした。
水面下でいろいろと動いてくれていたらしく、「水球ならこのクラブ、シンクロナイズドスイミングならここ、話はしてあるから良かったら連絡してみたら? 競技ではないけれど、スキューバーダイビングなんかも向いてると思うわ」とアドバイスをくれた。
そっか。
水の中で過ごすって、泳ぐだけじゃないんだね。
「スクールの実績としては惜しいんだけどね。あなたのファンだからこそ、輝いていてほしいわ」と言ってくれた。
水泳部の顧問には電話で、水泳はやめないけれど競技での勝ちを目的にしたくないと伝えた。
顧問は少し黙ったあとで、「一度スターになったやつはそこにしがみつきたがるけど、それを手放そうっていうんだから、おまえはたいしたもんだ」と誉めてくれた。
「認めてやるから、俺の数学のテストでいい点取れよ」と凄みのある声で言われて、少しビビったことは内緒だ。
さて、家族にだが、
考えていたよりもすんなりと話ができた。
パパもママも姉さんも、私が沈みがちなのはスランプのせいだと思ってそっとしてくれていたらしい。気持ちがすれ違っていたようだ。
「私が大会に出なくなるの、ガッカリしない?」とおそるおそる聞いてみると、
「へっ? ガッカリって何が?」とすっとんきょうな答えが返ってきた。
「応援は楽しかったけど、それはあなたがイキイキしていたからよ。あなたは居てくれるだけで、それだけで素晴らしいのよ」とママ。
「居るだけでスペシャルよ」と、姉さんが鈴を転がしたような声でコロコロと笑う。
「なんかみんなスッキリしたみたいだな。じゃあスッキリ記念に寿司でも食いに行くか!」とパパが言うと、ママがすかさず「あなたが食べたいだけでしょ!」とツッコミを入れる。
誰かのために泳ぐんじゃなくて、自分が楽しむために泳いだら、周りも一緒に楽しんでくれる、そんなのがいい。
お寿司屋さんまでの道を、姉さんと二人で「寿司食いねぇ、寿司食いねぇ」と歌いながらスキップして進んだ。
後ろから「回るほうだぞ! 回らない寿司屋じゃなくて、回るほう」とパパのすっとぼけた大声が聞こえた。
「恥ずかしいでしょ!」とママに怒られて、すみませんと謝っているが、すごすごと引き下がるパパではない。
猛スピードで私たちのほうに走ってきた。
澄み切った青空が少しずつ色を変えてゆき、キャアキャアと逃げる私たちの影が、ゆるやかに伸びていった。