見出し画像

化学系博士課程学生が考える:マティスの描く人

昨年のマティス展でのこと。
いつも通り上野に行き、東京都美術館に向かいました。
チケットを学生料金で購入していざ、マティス展へ。
私は美術館に行って絵画を見るのが好きですが、見るスピードはとても速いと思います。
絵画をパッと見た時の印象を大事にしているからです。
どんなものでも、自分と共鳴するものは一瞬でわかるもの。
ただ私の経験則ですが、ゆっくりかけてわかることは少ないと思います。
そういう場合は、おそらく自分が変わった場合で、分かる瞬間は一瞬だと思うのです。
だから、その時の共鳴自体は一瞬の刹那に起こると考えています。
だから私は絵もじっくり見ない。
パッパッパっと見て、これは!と思ったところだけ長居します。

マティス展にて私はこれは!という絵を見つけました。
『夢』という作品です。
青い何かに寝そべる上裸の女性の絵でした。
見た瞬間、これは確かに人だ!と思いました。
この女性はかなりデフォルメされた形で描かれています。
リアルな写真のように描かれているわけではない。
それなのに、まさに人だと私は思ったのです。
青い何かに触れる感触、それに入り込む女性。
涼しげな表情。
きっと何か良い夢を見ていると思いました。
これが人を描くということかと勝手に納得しました。

人を描く(書く)という表現を初めて知ったのは高校1年生の時でした。
都会のトム&ソーヤ(12)《IN THE ナイト》を読んで知ったのです。
都会のトム&ソーヤは中学2年生の内藤内人と竜王創也が主人公で、世界一のゲームクリエイターを目指す物語です。
厳密にはゲームクリエイターを目指しているのは竜王創也で、内藤内人は自分の夢が見つかるまで竜王創也のお手伝いをしているという状況。
そんな、内藤内人に小説家になりたいという夢が芽生えます。
たしか、もともと漠然と小説家と言っていた気がしますが、強く思い始めたのは創也と仲良くなった後だったと思います。
うろ覚えですみません。
そして、いざ内人が原稿用紙にストーリーを記します。
その文章を読んで創也が一言。
人が書けてないってやつだな。
まあ、私は内人の文章を楽しんで読みましたけどね笑。

でも、確かにそういう文章を読んだことがあります。
どこか登場人物が記号っぽい。
生きている気がしない。
それに、私も小説を書こうと挑戦したことがあるんです。
その時の登場人物がまさに記号そのものでした。
これは駄目だと思いましたね。
すごい不気味なんです。
生きてないのに生きてるみたいな顔をしているから。

おそらく、絵でも同じです。
生きている人を描くというのは難しい。
私が実際小説を書こうとして実感しました。

では、人を描く(書く)とはどういうことなんでしょうか。
マティスの本から探ってみたいと思います。

私にとって、表現とは顔に溢れる情熱とか、激しい動きによって現される情熱などのなかにあるのではない。
それは私のタブローの配置の仕方全体のうちにある

人体が占めている場所、それらを取りまく余白の空間、釣合いなど、そこでは一切が役割をもっている。
……
一つの作品は全体として調和がなければならない、つまり、余計な細部があれば、みんなそれが観る人の心のなかで別の本質的な細部の地位にとって代ってしまうからである。

二見史郎訳,マティス 画家のノート,2023,p41

マティスの絵が、いかに繊細に描かれていたかがわかる文章です。
絵の全てが役割を持つ。
色、配置、余白の全てに意味がある。
詩と同じです。
なるほど。
ここまでしないと人は描けないらしい。
確かに、人は自然であり、記号ではありません。
人は本来代替不能なもの。
代替可能にするのは機能主義によって抽象的な意味に変換されているからです。
これが自然に向き合う人の心構えですか。

絵画は筆を用いて空間を切り裂く。
色や余白を用いて切り裂く。
それが文章ならば言葉にあたるわけです。
たった一つの意味を、言葉の刀で形づくる。
意味を形づくるとは、表面上だけみるとなんか矛盾しているような気がする。
しかし、その切り取り方でしかたった一つの意味は言葉で表せない。
大きな抽象を示すには大きな具体で示す他ない。
例えば、海というより、稲毛海岸という方がより具体度が増す。
さらに、冬の風吹く稲毛海岸の漣といえばさらに具体性が増す。
伝えたい感傷、ニュアンスはそのたった一つの大きな具体でしか伝えられない。
ニュアンスというのは抽象ですね。

意味で見てしまえば、そのものからは遠ざかる。

例えば、道を歩いていて桜を見るとする。
「あ、桜だ」と思えば、その桜そのものを見ることはなくなる。
桜の木の枝の構造や、桜の花びらの色合いなどは私の意識の外へ追いやられ、桜、という一言が意識内を満たす。
純粋に桜を見ることはできなくなるのです。

人においてもそういうことがありますよね。
この人ってこういう人なんだなと思えば、そういう人という記号になる。
このことが上手く表現されているのがやはり俺の青春ラブコメは間違っている。の登場人物の玉縄さんです。
玉縄さんは主人公の比企谷八幡とは違う、海浜総合高校の生徒会長。
あるイベントで関わることになるのですが、この玉縄さんの書かれ方が面白い。
まさに、いわゆるイキリ就活生の如く、横文字を使いたがる。
というか使う。
アジェンダとかMTGとかインセンティブとか。
そして、その玉縄さんはそういう人として描かれる。
詳しくいえば、視聴者そのように見えるよう描かれる。
アニメだとさらにわかりやすいと思います。
人を記号化して見るってこういうことだな。私もそういうことあるな。と感心しました。

そして、この意味、記号に変換される前の感触を表す言葉こそ、西田幾多郎の純粋経験だと思っています。

純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。

西田幾多郎,全注釈小坂国継,善の研究,2006,p30

西田幾多郎の善の研究の第一章の言葉である。
私は恥ずかしながら善の研究を全て読んでいない。
第一章の純粋経験しか読んでいない。
それでも、西田幾多郎がこれからの議論は全てこの純粋経験を元として始めるといっているように感じた。
今の私ではそれを感じただけで大満足だったのだ。
マティスも空間を切り取る上で、頼りにしたのは自身の純粋経験だったのではないか。

おそらく、人を描く(書く)上ではこのことが大事なのだろう。
あるがままの感触で、ひたすら丁寧に切り取る。
当時の私は小説を書く時、意味から始めた。
初めから機能として人を扱ってしまった。
だから、全然人が書けていなかったのだろう。

当時上野を訪れた私は何を求めていたのだろう。
会期を見るに博士課程1年の夏ごろ。
研究においては自身の興味に基づくべきと潜在的に思っていたと思う。
おそらく、その私の純粋さが、より大きな純粋を求めた結果の共鳴だったのだろう。

それでは。

いいなと思ったら応援しよう!