〔公開記事〕『短歌人』2023年1月号「2022年10月号 秋のプロムナード」評
生の軌跡
具体的な物や出来事を丁寧に描き出し、主体の生の軌跡が感じられる作品が並んだ。また、地名に印象的なものが多かった。
ゆふだちの音に降るとふ焼夷弾九歳の父にも降りしそのおと 洞口千恵
霊屋(おたまや)橋を吹く風あをし来む世には広瀬川に棲むかじかとならむ
一首目、焼夷弾の音を聞いたことが無い人が大部分になった今も、夕立の音という喩えがその音を再現する。子供だった父もその音を聞いたのだ。二首目、「霊屋橋」「広瀬川」という固有名詞が効いている。澄んだ声のかじかとして生まれ変わることを願う主体。風あをし、という把握によく合う願いだ。
居心地の悪さ感じること増えて金平糖の棘の沈黙 森 直幹
塩漬けにされた数の子一夜では元に戻らぬ友とのしこり
金平糖、数の子という手触り感のある食べ物が、心の屈託を代弁する。金平糖の棘、塩漬け、など人間関係の不全感を表すのに絶妙な選びだ。棘も塩漬けの塩辛さも容易に無くなりそうにない。
こどもには人権のなきあの頃は風邪を引いても叱られていた 有朋さやか
けいりんが財源になるこの街は令和のいまも火葬が無料
一首目、今でこそ子供の権利に大人も配慮するようになったが、昔は躾の名のもとに親の意志のみが尊重された。優しくしてもらえるどころか、気をつけろと叱られたのだ。二首目、賭博が地方都市の財源となっていて、火葬が無料という思いがけないところで市民に還元されている。面白い目の付け所だ。
乗り換えのたびに中断する読書まもなくKの自死するところ 魚住めぐむ
アンドロイドの死を描きたる物語 人よりも人らしく息絶ゆ
一首目、電車の中で読書する主体は、読んでいる本の内容を知っている。教科書で夏目漱石『こころ』のハイライトを載せているからかも知れない。二首目、『ブレードランナー』などだろうか。物語の作者も主体も、アンドロイドに人間の心を見ているのだ。
七日後の入院ひかへクリーニングしにゆく駅まへ歯科医院まで 村田耕司
つき添はれ手術翌日歩かむとす青き病衣をきてぼつぼつと
自らの入院を題材にした一連。手術を控えて歯のクリーニングというのが準備周到だ。最近の病院では術後すぐ歩くよう求められる。機能の衰えを防ぐためだろう。「青き病衣」が具体的で、実景が浮かんで来る。
白老の街道ゆけばいつしらにカモメ寄りきてしばし並走す 柊 明日香
牧草ロール積みて走れるトラックがノラニンジンの花ゆらし過ぐ
北海道旅行を描いた一連。カモメが車に寄って来ることから、白老が海に近い土地だということが分かる。牧草ロールも北海道の雄大さを想起させる。ノラニンジンという名称によって、写実の深みが増した。
この広き入間の川面はゆふぐれの余光の優しあゆみて来れば 青輝 翼
あしたより炎暑の歩行を照らされて立秋の夜の眼の乾きをり
一首目、初句二句がリズム良く実景を浮かび上らせる。川面に夕ぐれの光が残っているという描写が美しい。二首目、朝から暑い一日。夜になると眼が乾いて感じられるというところに実感がある。
いちじくに唇しめらせてかすかなる粘りを夜のあいだ拭わず 内山晶太
生活のつづきをいわばゴンドラに乗りし日の体感と一致す
一首目、無花果を食べた後、口にその粘りが残っているが、そのままにしておいた。生々しい感覚が伝わる。二首目、ゴンドラは小舟ではなく、スキー場のゴンドラリフトと取った。どこか不安定なまま、生活は進んでいく。自らの意志ではなく、何者かに運ばれていく感じだろうか。
明け易き寝床に届く山鳩のくぐもるこゑは胸底あらふ 杉山春代
水浴びをする園児らの歓声を聞くは一夏のわれの楽しみ
連作タイトルは「夏のこゑ」で、聴覚に特化した歌が多い。一首目は夏の明け易い朝、山鳩の声が胸に浸み通って来る。清浄な印象だ。二首目では幼児のはしゃぐ声を聞く。大人にはもう出せない声が、大人たちを癒してくれる。心の優しさが滲む歌だ。
変はるなき日常あるはよきことと納得させて朝の身支度 人見邦子
ふと気付く何に急ぎて一日ある積み雲ながめて物を干すとき
何の変哲も無い一日でも、それがあることが幸福なのだ。そのことを日常生活の小さな動作から実感している。朝の身支度や洗濯物を干す時。そんな瞬間こそかけがえが無いのだ、という気づきが読者に伝わってくる。
軍需品運搬のため引かれたる引込線なり故郷の駅は 林 悠子
廃線となりていつしか駅跡の跡形もなき夏の草はら
日本の近代は鉄道と共に発展した。特に軍需品運搬という役割は軍事国家に直結している。しかし戦後その役割は消え、地方によっては鉄道そのものが生活の表舞台から消えつつある。一首目はその駅の成り立ちを、二首目は末路を描いて感慨深い。長い時間を含んだ二首だ。
「そこで自由に吹いて」ああセッションとはさういふもの 私はもう飛び降りるしかなく 和田沙都子
自由に笛を吹くことこんなにたのしいと七十八年生きて目覚めて
ピアノに合わせて、主体は笛を吹いた。楽譜通りに吹くのではなく、自由なセッションだ。心が開放される感覚を歌で表現する。大幅な字余りもセッションのアドリブを想起させて、内容に合っている。
れんげ菜の花枯れ枯れにまだ咲いてゐるこの世の旅が終はつたやうに 長谷川莞爾
時実新子の川柳へのオマージュ。十五首全て時実の川柳を詞書としている。掲出歌の詞書は「れんげ菜の花この世の旅もあと少し」。川柳との語彙の近さが気になるが、濃厚な恋の気分が漂う華やかな一連だ。
瀬戸物の触れあふ音のやすらかさ余所の家から聞こえるときに 大越 泉
この世から出て行くまへの祖父のこゑ夏には聞こゆ「順番、じゆんばん」
一首目は他家の食事の音を聞いている。瀬戸物という言葉遣いが優しく響く。二首目は祖父の言葉を思い出している。年の順に世を去れば、それは何も寂しいことではない。主体も自分に言い聞かせているのだろう。
こんなにも合歓の木ありしを知らざりき里山海道珠洲(すず)までつづく 三井ゆき
たつたひとつたつたひとりを惜しむやううたかたの世の打ち上げ花火
能登半島、宇出津の祭りを詠った一連。カメラのシャッターを切るように祭りの場面が描かれる。合歓の花を辿って宇出津に着いた主体は、祭りを隅々まで味わい、最後は打上げ花火を生の感慨と共に眺めるのだ。
大切なひと幾人もの弔ひに列することなくこの二、三年 斎藤典子
鮎一尾青花草木の皿に置きひとに会はざる日を貴しとす
コロナ禍で大切な人の葬儀にも参加できないことを嘆く一首目。一方、鮎と青花草木の皿の描写が瑞々しい二首目では、自分の生活を味わい、一人の日々を大切にする心を描く。どちらも人としての本音だろう。
『短歌人』2023年1月号 公開記事