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『現代短歌』2020年11月号

①「第一回BR賞選考座談会」この特集で「書評」ということに色々考えさせられた。まず、断片的に選考委員の発言から引く。

②「座談会」加藤英彦〈書評って、多くはまだその本を読んでいない読者が対象なんですよね(…)書評は未知の読者に対して書き手がその本をどう見せていくか。〉映画評でもそうだが、少しの情報で読者に読んでみたいと思わせて、しかもネタバレにならず…。このバランスが難しい。

③「座談会」染野太朗〈妙にレトリックで語ろうとするところがあって(・・・)書き手の自意識みたいなものが先に目立っちゃってつらいな、というところも実はありましたね。〉作品と作者が主で、書評の書き手は黒子の役割だが透明でもつまらない。これもバランスが難しいところ。

④「座談会」江戸雪〈答えをタイトルにまで提示して、それを何度も何度も言われてしまうと・・・〉自分の読みのポイントを提示するのは大切だと思う。それが無いと論としてつまらない。しかし、それの出し方が難しいということだろう。これもバランスということか。

⑤「座談会」加藤英彦〈でも、書評って、ご祝儀書評のような持ち上げでないかぎり、読者に対して、これは読めよというくらいの煽りメッセージが多少あってもいいかな(・・・)〉この意見全体には賛成なのだが、「ご祝儀書評」という言葉に驚く。やっぱりあるんだ、こういう言葉。

⑥内田樹「(あまり)書評を書かない理由」、添田馨「”自分を殺してくれた書物”への愛」 今回の特集で一番衝撃的だったのはこの2本の評論だった。書評というものの存在意義とか在り方について考えさせられた。2人の主張には異議は無いものの、それは可能なのか、と迷う。

共通の主題は「よい書評とは」。

⑦加藤英彦「河野裕子没後十年」〈三枝(昻之)はまず「戦後という時代の磁力」から自由であろうとした河野裕子をそこにみている。このことは今後、戦後女性史ではない現代短歌史のなかで河野裕子を問い直すときの大切な視点の一つ(・・・)〉現代短歌史の中での位置付けが急務だろう。

2020.10.15.~18.Twitter より編集再掲