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角川『短歌』2022年9月号

①「うたの名言」宮柊二〈何びとといえども、先人の恩恵を受けることなしに、独自で自分の歌の世界を創ることはできない。〉本当にそうだな、と思う。自分独自と思っていることはとっくに前例があったりする。この宮の言葉を選んだのは佐佐木幸綱。

②「結社賞受賞歌人大競詠」八月の影の鋭さくっきりと切り離されてみんなって誰 ゴウヒデキ 夏の日差しの中で、影と影がぼんやりひっつているのではなく、くっきりと切り離されて見える。みんなって、他の影に紛れて一部になってしまうこと。結句のつぶやきの付き方が絶妙だ。

さみどりの田の面を渡る雲の影ゆっくり癒えて行かなくてはね ゴウヒデキ 景+心情がよく合っている。雲の影がゆっくりと田の面を渡ってゆく。そのように自分の、あるいは相手の心もゆっくり癒えて行ってほしい。読んだ者も同感し、癒される感を受ける歌。

④「論考特集 肉体(なまみ)の声(さけび)」
 藤島秀憲〈肉体的表現ということを強調しすぎてしまうと肝心な精神的表現が見えにくくなってしまう。肉体はあくまで道具、肉体を描写することで精神を表現したという見方が『森のやうに獣のやうに』には相応しいと私は思っている。〉
あたたかく胸合はせつつわれら見き夕映え越えて帰る山鳩/くちづけを離せばすなはち聞こえ来ておちあひ川の夜の水音 河野裕子
〈躍動する肉体の中では満ち足りつつも、この幸福がいつか崩れ去ってしまうのではないかという不安が渦巻いていて、それを象徴する形で自然の景が置かれる。精神・肉体・自然の三本立てという構造も『森のやうに獣のやうに』の見逃しがたい特徴であろう。〉
 河野裕子『森のやうに獣のやうに」刊行50年記念の特集。藤島の論はとても深く、河野の歌の内実に切り込んでいる。肉体と精神が不可分なことも自明のようでいて、このように論じたものは少ない。

⑤道浦母都子「挽歌の華」

足を病む汝が三輪車の影曳きてかく美しき落日に遭ふ 島田修二 

 〈足を病む子が曳く三輪車の背景の、落日の美しさに作者はみとれている。〉 この評を読んで、考えてしまった。足を病む子が三輪車を曳く、とはどのような状況なのだろうか。子は三輪車に乗って漕いでいるのか、三輪車を降りて曳いているのか。三輪車は漕ぐことを曳くというのか。いずれにしても「汝が」の「が」は主格ということだろう。それなら下句の「遭ふ」の主語は誰だろう。子か、作者か。道浦の読みでは、下句の主語は作者ということになる。
 上句と下句で主語が変わるのを不自然に思う。私は今まで何となく、「汝が」の「が」は所有格で、作者が片手で子と手を繋ぎ、もう片手で子の三輪車を曳いているのだと思っていた。そうすれば、上句も下句も主語は作者。三輪車を、ではなく、三輪車の影を、曳くが上手いと思っていた。どうだろう。

⑥鈴木加成太「時評 暴力への意識について」
〈これらの歌における「~(して)くれた」は、いずれも相手の側はそのように受け止められることを意図していなかったように書かれている。同時に、それを敢えて「~(して)くれた」と書くことにより、相手との関わりの中で生じうる暴力性を加減・調整していると読むことができないか。〉〈相手へ向けた行為が一方的な、暴力的なものとなるだろうことを自覚しつつ、その暴力性が非現実的なものであることを念押しするという役割が、「~(し)たい」という表現に託されているのではないか。〉
 「暴力への意識」という一点に絞って、歌を挙げ、表現の意図するもの、あるいは意図せずに表してしまっているものを詳細に論じた文。暴力性を調整する、という把握の仕方に瞠目する。歌を引かないで引用したので、これだけでは分かりにくいかも。ぜひ原文で読んで欲しい論だ。

2022.10.9.~11.Twitterより編集再掲