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『塔』2021年12月号(2)
⑭すきだって歌なぞりつつすきという気持ちだけがたしかさとして、樹 中田明子 あなたが好きだという歌を私がなぞるように読む時あなたがこの歌を好きだという気持ちだけが確かさとして伝わってくる。下句の句跨りと投げ出されたような「樹」という語。確かな気持ちが樹のように立つ。
⑮感情をくり抜いておく冬を越すあなたのための樹になりたくて 田村穂隆 あなたが辛い季節を越える時の静かな樹でありたい。あなたが憩いを感じる存在でいたい。だから自分の感情はくり抜いてどこかへしまっておく。ぽっかりと胸に穴が開いても、あなたがもたれてくれればいいのだ。
⑯嫌われないことが目標だった日のどこから見てもまるい紫陽花 亀海夏子 好かれることではなく、嫌われないことが目標。だから全方位的にいい人になっておく。自分の心の角を削って丸く丸く。今、そんな日の自分をかすかに哀れむような、遠くを見るような気持ちになっているのだろう。
⑰死ぬ時は雑巾のように死にたいの川の流れに沿いながら聞く 高原さやか 誰かと川沿いを歩いている時に、相手が言った言葉だろう。その異様な迫力が主体にこの歌を作らせた。言った人に何があったかは分からない。川の流れは時間の流れ。苦しみに満ちた人生の時間が流れて行く。
⑱逃げることで吾が傷つけし四五人が眠りの際にいつも出てくる 佐々木美由喜 もう忘れていい、と主体に言いたい。そう思っていることで充分ではないか。本当に人を傷つける人は、人を傷つけたことに苦しんだりしない。逃げたことに苦しんでいる自分こそ一番傷ついているのではないか。
⑲「第11回塔新人賞・塔短歌会賞オンライン授賞式 報告記」大地たかこ「授賞式」・榎本ユミ「記念座談会」・姉川司「交流タイム」の充実した報告記。おそらく参加していない方にも雰囲気が伝わるだろう。姉川の〈河野裕子が参加しているように思えた〉という記述がうれしい。
⑳「方舟」川本千栄「座談会ユーチューブ配信の試み」先述の「第11回塔賞授賞式記念座談会」のyoutube配信について寄稿した。パネラーは浅野大輝、橋本牧人、花山周子、司会は川本。公開期間二週間で再生回数762回を数えた。コロナ収束後もオンラインの長所が活かせる所は活かしたい。
㉑山下泉・澤村斉美・魚谷真梨子「そもそも歌集ってどう読んでる?」「悩みに答えるQ&A」
歌に歌われた「事」に感動しているのか、「歌」そのものに感動しているのかという議論の後
澤村〈「作品は作者の人生と切り離して鑑賞すべきと言われるが、どうしても境涯とむすびつけてしまう」という悩みも寄せられていました。この場合、作者の人生が「事」に当たると思うのですが、歌集を一冊読んで心が動く時、作者の人生に心を動かされているのかというとちょっと違う気がする。極端なこというと、そんなに人生の出来事って大きく変わらないですね。それぞれの人生は無二なんだけれども出来事としてはどこかで聞いたことのあるエピソードばかりでそんなにバリエーションはない。それで、作者は人生のことを訴えたくて歌を作っているのかというと必ずしもそうではないのでは。作者の実際の人生と、言葉として表れたものの間にはレイヤー(層)があるといいますか、言葉にすることによって位相が変わるといいますか。〉
長いけどすばらしい発言なので全部引用した。私の思ってたことと一緒。でも自分では上手く言えなかった。これを読むと、人生を詠うのか詠わないのかという最近見る議論が表層的なものだとわかる。このQ&A、ぜひ多くの人に読んでほしい。
㉒𠮷田恭大「短歌時評」「言葉派」という用語について論考した文。面白い。
𠮷田〈リアリズム志向に対する新しい潮流として藪内亮輔は「言葉派」を提示する。〉
𠮷田は藪内の論を引くが、その定義付けと𠮷田の定義付けは些か違う。これは「言葉派」という用語が曖昧だからではないか。
藪内〈誰がなんと言おうと私はこうだ(ヒロイズム)、私には何も変えられないから言葉にして悼む(祈り)、これは他者への関わりによる相互変化を、ある程度諦めるということだ。(…)リアリズム的な読みのコードしかないことは短歌における大問題である。〉
「言葉派」からはここまで分からない。「言葉」が普通名詞過ぎるのだと思う。そういう志向を表したいなら、ヒロイズム派とか祈り派とか言わないと通じないのでは?と思った。それにリアリズム以外の読みのコードが無いと断言するのもどうだろう。次にこの時評の書き手である𠮷田の意見を引きたい。
㉓𠮷田恭大「時評」続き
𠮷田〈「言葉派」については、これまでの用法で言うと「人生派」、私小説的に自己の感情を詠嘆するスタンダードな詠み筋、の暫定的な対立項として使われることが多い(逆に言うと、風呂敷が大きすぎて明確な対象のある議論には向かない)印象があった。〉〈「反=人生派」を「言葉派」と位置付けてしまうのはいささか乱暴ではないのか、と思うのだけれど、若手の中でも明確にアンチ人生派=言葉派、を志向する言説も出てきている。〉
𠮷田の定義は私には分かりやすい。その後展開される論にも概ね賛成だ。スタンダードだと言える論ではないか。現実と虚構、とか、リアリズムと反リアリズム、的な。その場合「言葉派」という語は𠮷田の言う通り風呂敷が大き過ぎる。「反=人生派」とでも言ってもらえれば論点が明確だ。「言葉派」と言えば藪内のように色々な概念を取り込み過ぎてしまうのでは。
㉔吉田恭大「時評」続き2 藪内の言う概念を突き詰めて、内容に合った名前を付ければ違う論点も見えるだろう。ヒロイズム的、祈り的な何かは安永蕗子や藤井常世らにもあり、そこにも議論が行けばいいと思う。
この時評は「塔」のブログで読めます。
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https://toutankakai.com/magazine/post/13137/
2022.1.29.~31.Twitterより編集再掲