見出し画像

河野裕子『桜森』13

肉が肉欲る必然の危ふさを木の花の名を教へてかはしぬ 
 相手を愛しく思う者同士、身体と身体が近づけば、相手の肉体を求める気持ちが起こる。その危うい瞬間の濃密な気配を、相手に木の花の名前を教えることによって逸らす。拒絶ではなく、今は自分の気持ちが高まっていないのだ。

友とせしはひとり汝れのみ過ぎし夏過ぎしゆふかげゆふすげのはな 
 亡くなった友を悼む。初句二句が強い。友情は安易なものではない。一生に一人でいいのだ。三句以下は逆に意味性は希薄だ。「過ぎし」と「ゆふ」の音が追いかけるように重なる。音韻的にもイメージ的にも美しい。

摑まれてむざと撓みし肩口のそこより悔しく君になだれつ 
 君に強く掴まれて肩が撓んだように思った。その肩から君に身体も心も傾れていった。四句の四・四の過剰さが内容に合っている。君への思いに抗しきれず、自分の身体と心をコントロールできない悔しさ。

水位徐徐に上がれるごとし黄昏て四囲にみち来るかなかなのこゑ 
 夕暮れになって四方を取り巻くように、かなかなの声が迫ってくる。それを水位が徐々に上がることに喩えた。夏の夕暮れの気怠い感じとかなかなの声の高まりがまざまざと感じられる。聴覚から体感へ言葉が橋渡しする。

母が甕塩甕味噌甕この納屋に百年前からあるやうに在る 
 「甕」「納屋」も河野短歌によく出て来る素材だ。この歌の少し前に「睡さうな生首どもをひとつづ夕日の納屋の棚からおろす」という歌があるが、生首=甕なのだと思う。甕は親しいものでもあり、他界へ繋がるものでもある。

子を叱る母らのこゑのいきいきと響くつよさをわがこゑも持つ 
 子育ては実際には叱ることが多い。それをマイナスに捉えるか、この歌のように「いきいきと響くつよさ」とプラスに捉えるか。主体は母らの声に元気をもらう。そして自分の声も同じ強さを持つことをうれしく感じている。

邪慳なるわれをわれさへ憎みつつ泣きやまぬ子を打つ又も打つ 
 これは子を叱ることを辛いと捉える歌。いつもいつも子を愛していることを表現できるわけではない。疲れて邪慳になることもある。そんな自分が嫌になりながら子供を打つ。制御できない怒り。結句の句割れが効果的。

次つぎに綿もて填(つ)めつ腔のつく人体のくらく洞なせる箇所 
 祖母が亡くなった。人体の穴が空いている場所が綿で次々と詰められていく。そこは暗い洞が空いている場所なのだ。遺体処理をしているのは他者かも知れないが、歌では主体が綿を詰めているような臨場感がある。

亡き祖母が遺せし反故のあはひよりざくりと一束の銹針が出づ 
 『桜森』には銹針が何度か出て来るが、この歌は特に印象的。祖母が残した反故紙の間から一束の錆びた針が出て来た。「ざくりと」が不気味だ。今よりももっと縫い針が身近だった頃。錆びた針が祖母の生を象徴する。

2022.2.26.~27.Twitterより編集再掲