トミヤマユキコ『少女マンガのブサイク女子考』(左右社)
ルッキズムに対する批判激しいこの世にあって、滅茶苦茶攻めてるタイトル。ほとんど暴挙に見えるが、これはとても真面目な本。人は誰も見た目の悩みとは無縁ではない。そこに切り込んで来る本書は、読者に問題意識を突き付けてくる。本書最後の方に著者の言葉で「少女マンガが描く美醜の問題系には、奥行きと広がり、つまり、多様性がある」と記されている。美醜の問題を真剣に、しかもポップに論じた、とても読みごたえのある本だ。
〈「ブスでもないのに・・・」の漫画は、舞台が学園物でも内容はファンタジーとして楽しみました。『エリノア』はそれとは真逆で、舞台装置は本物のファンタジー にもかかわらず描かれているのはシビアすぎる現実!真実が仕込まれたお話は、深く深く心に染み込んで消えない・・・『エリノア』とはそんな名作だったのです。(谷口ひとみ『定本 エリノア』)〉舞台設定がファンタジーでも内容がリアリズム。そしてその中に真実が仕込まれている。マンガや小説だけではない、考えさせらる点だ。
〈本章で取り上げたブサイク女子たちに共通するのは、目標のためなら手段を選ばない豪胆さと、ほどほどのところで妥協することを知らない不器用さであるが、これらは全て、彼女たちが純粋すぎることに起因している。その純粋さが他者との恋愛ではなく、自己の存在意義それ自体に向かうとき、物語はシリアスさを増し、読者からブサイクを揶揄する気持ちを奪っていく。真顔でブサイク女子マンガを読むのは、すさまじくエネルギーを消耗する。しかし、読後のズッシリとした疲労感は、満足感の別名でもあるのだった。(第三章末)〉ルッキズムは、それはダメですと言って禁止すれば無くなるような単純なものではないのだ。
〈美しい人たちの醜さを、歪みを、救われなさを、一切オブラートに包まず描く山岸凉子先生の胆力よ。みにくいあひるの子が白鳥になってめでたしめでたし、とはならない(ゆえにめちゃくちゃシビれる)結末が、ここにはある。(山岸凉子『鏡よ鏡・・・』)未読。山岸凉子大ファンなのに未読。これは悔しい。本書はネタバレ大ありなので、既にストーリーは知ってしまったが、それでもこれは読まないと・・・と思わせる。どうしてこんなに人間心理をニベも無く描くことができるのか。それに対する著者トミヤマの分析も切れ味鋭い。
〈この世には「結果が全て」という言葉があるが、おそらく人間関係にその言葉は当てはまらない。ひとと向き合おうと努力するプロセスこそが、人を美しくする。ゆりあを見ていると、そのことが実にはっきりとわかるのだ。(アルコ『終電車』)〉これも読んでみたいなーと思わせる解説解題。主人公の設定が実にリアリティに富んでいる。
〈こんなことは現実ではあり得ないかも知れないが、フィクションではあり得る。フィクションとは思考実験の場であり、その中でも少女マンガは、半歩先の「あったらいいな」という未来を描いていることがあって、本作はまさに、ふつうの恋愛、ふつうの結婚を解体し、新しい人間関係(本作では婚姻によらない拡大家族)を獲得するわたしたちの未来を描いている。リリのお馬鹿っぷりに笑わせられながらも、既存の恋愛観・結婚観に激しくゆさぶりをかけられるこの読了感は、他に類を見ない。(鈴木由美子『アンナさんのおまめ』)かなり明るい感じの展開。それはそれで設定はアリだと思わされる。結局美醜というのは主観が大きいから、どういう角度から描くかで世界の見え方は全く変わってしまう。絶対的な美醜というのは無いのだ。
〈中高年の男性をポジティブに描くことは以前からあったが(枯れ専という言葉もあるくらいですしね)、女性については、ようやくその端緒についたばかり。これは地味だが決して看過できない進歩だ。若くてかわいいだけが正義ではない、という価値観が育ちつつあることは、女たちを「呪い」から解くことであり、端的にとてもいいことだ。(…)かつて「美」を誇っていた女が、いつの間にか社会から「醜」のレッテルを貼られていた、という経年変化を描きつつ、しかしあくまで「醜」のよさをアピールしていく。それが本作の試みである。老いを一種の醜さとして描きつつも、それを全肯定していくパワーはどこから生まれたのだろう。(松苗あけみ『カトレアな女達』)これも読みたい!経年変化って軽く言われているけれど、「老い」は「醜」と分類されている。これは今後変わるのだろうか。年頃女子が変化するのとはまた違うハードルの高さがあり、それは万人逃れられないことなのだ。中味が良ければいいというようなキレイごとでは済まない話だろう。
〈この世には美醜というものが存在しており、それによって自分がジャッジされ、ときに人生が大きく変わるーといった「大人界の不文律」を登場人物たちがきちんと理解しているからこそ、美醜モノは成立する。(玖保キリコ『シニカル・ヒステリー・アワー』)〉これは読んでいたけど、その問題が含まれていたとは気づいていなかった。不文律を理解する前の子供の世界の物語。もちろん大人目線で。
〈トミヤマ:「わざとブサイクになる」のバリエーションとして、「サバサバした姉御キャラみたいなものもあります。男と対等に話ができて、ガサツで、というタイプ。男に選ばれる「女」という土俵に立たないことで、男女間のめんどくさいことから逃れらる。ほんとはそんな予防線を張らないで普通に生活できたらいいじゃんと思うけれど、ブサイク的なふるまいによって身を守る、というのは生きる知恵として確実に存在しますね。(能町みね子との対談より)かなりぐさっと来ると思う反面、少し古いという感じも。私の年齢のせいか。
〈トミヤマ:「ブサイク女子」というカテゴライズって残酷ですけど、それをマンガで丁寧に描いていくことは、ある種の優しさだと私はおもっているんです。使い捨てのキャラとして描いて終わりではなくて、ブサイクさを丁寧に腑分けしていくことで、キャラを「個」として描くことになると思うので・・・(同対談より)〉ブサイク女子マンガの根底にはマンガ作者の愛がある、という意見。それは往々にして作者自身がかつてルッキズムに悩んだことがあるからではないだろうか。攻めてるタイトルの真面目な一冊である。
これは読まねばと強く思ったのは、安野モヨコ『脂肪と言う名の服を着て』、坂井恵理『鏡の前で会いましょう』、岡崎京子『ヘルター・スケルター』、山岸凉子『鏡よ鏡・・・』、萩尾望都『イグアナの娘』、鈴木由美子『アンナさんのおまめ』、松苗あけみ『カトレアな女達』。
左右社 2020.10. 1700円+税