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『短歌研究』2022年10月号(2)

⑪「第四十回短歌評論賞選考座談会」今回は課題が選択式で、①口語短歌の歴史的考察②ジェンダーと短歌③「疫の時代」の短歌、の3つだった。候補作7つの内①が5、②が2、③が0だった。口語が評論のテーマとして好まれる現状があるということだろうか。
 選考はオンラインで、あまり座談会の雰囲気がないのが残念。心に残った発言を引いてみる。
 奥村知世の評論について
谷岡亜紀〈短歌の中にも中心-メジャーがあり、周縁-マイナーがある。そこに分断がある。ただし今、SNSという新たなツールによって短歌の、しかも中心ではない周縁が文学として、純粋に読者を獲得することが新たな短歌の可能性として現れてきているという。短歌の現状に対する問題提起として読みました。〉この現状に対する問題意識は歌壇の中にかなり広くあると思う。何がメジャーで何がマイナーかということが揺らいでいるのだ。抄録でも読みたい論だ。

⑫「選考座談会」
 竹内亮の評論について
寺井龍哉〈岡井隆さんのエッセイ「現代短歌の文語律と口語律(馬場あき子編『短歌と日本人3 韻律から短歌の本質を問う』)を踏まえて、「対話調の要素のある短歌」が口語的に感じられるのは、それが文脈依存的であることと関わっていると指摘します。(…)その岡井さんの理論の背景に、「主体」や「行為」に注目して言語をとらえなおす「時枝文法」の理論があると見て、そこから「文脈依存的」、つまり言葉が誰から誰に、どんな場面で発せられるかに依存する言葉のあり方を導いてくる。〉
 評論の抄録も面白かったが、寺井の要約を読んで益々興味を引かれた。口語短歌には、論として書かれるべき側面がまだまだあることを実感する。

⑬「選考座談会」
 桑原憂太郎の評論について
谷岡亜紀〈言語学のモダリティという概念を導入しているわけですけれども、そこにアイデアがあるし、新しい。モダリティというのは話し手のキャラクターや相手との関係が何となくわかるような語尾ですね。〉
今井恵子〈口語短歌の文末処理に着目したということで評価が高い。〉 篠弘〈傾向としての三つのポイントをここまで具体的に挙げた論文は今までなかったのではないか。〉
 同感、同感の論評だ。今後多くの書き手がこの問題に取り組むだろう。口語短歌に対する理論的考察が本格化するのではないか。

⑭「選考座談会」
高良真実の評論について
 三枝昻之〈この論文は文語か口語かという問題提起を、現代語としての短歌という観点にスライドさせることによって、風通しのよい考察にした。(…)晶子は、鉄幹が、旧派和歌のマニュアルに縛られた歌語ではなくて、当時の現代語を使用しているから私でも作れそうだ、と思ったわけです。(…)現代語というキーワードで近代以降の表現の変遷をたどることができる。それが今後の口語短歌と呼ばれるものの可能性にも広がるのではないか(…)〉
 現代語としての文語/口語ということだ。文語→古語、口語→現代語、という枠組みではなく。ただ、現代語、というとイマの言葉かというとそうではなく、当時の現代語、という含みがある。私は個人的には「同時代語」という用語を提案したいな。明治の現代語なのか、令和の現代語なのか。「同時代語」とすれば歌壇の議論の混乱が減るのではと思っている。

⑮(つづき)高良真実の評論について
谷岡亜紀〈現在の口語と文語ではなくて、雅語と俗語の問題と捉えていて、すると和歌から短歌への革新という問題と、文語文法から口語文法へという流れが重なる。そこに明治政府の国語改革的なものがあったという、これは現代の短歌の口語を考えるときにかなり重要な問題だと思います。〉
 このあたりは論点がたくさんある。和歌短歌の歴史だけ追うのではなく、政策としての国語改革にも常に興味を持っていたいと思わされた。

⑯吉川宏志「1970年代短歌史 反措定と幻想派」〈事実の領域からイメージを飛翔させ、ブーメランのように回収することで一首を完結させる。安森敏隆は、こうした構造を斎藤茂吉の歌の中に発見した。この視点は鋭い。塚本邦雄がこだわる社会批評性とは別の観点から、「幻想」をとらえていたことが分かるのである。そうした構造によって、次のような歌の魅力を説明することが可能だと思われる。
デボン紀の裸子植物のせしごとき浅き呼吸を恋ひつつ睡る 河野裕子
 はるかなものに空想を飛ばし、また自己へと戻ってくる。そうしたダイナミックな歌のあり方を、安森は「幻想」と呼んだのである。〉
 1960年代末から1970年代初めの同人誌「反措定」と「幻想派」について。写実⇔幻想・虚構、という1950年代の対立軸が、使えなくなった時代の幻想の捉え方を、安森の論に見る。河野裕子を幻想という軸で読むという視点は後年、後退していったのではないか。

⑰吉川宏志「1970年代短歌史」〈「私的言語イコール幻想」なのだ、という認識も興味深い。写実対幻想ではなく、〈私〉の感覚を独自に押し進めていったところに幻想が生じてくると見ていたのである。〉同人誌「幻想派」終刊号の川口紘明の論について。塚本の歌もこの論で読んだ後、〈共同的なものを信じるよりも、自分だけの身体感覚を貫くほうが、新鮮で不思議な歌が生まれてくる。そんな時代が近づいていた。そしてそれをまっさきに実践し、成功したのが、河野裕子の歌であった。
未来などあてにはすまじいきいきと止血のあとの脈ふとりくる 河野裕子
 10月号の論はこれで終わっている。河野裕子の歌を読む新たな側面を提示して以下次号…。展開が巧みだ。わくわくする。もちろん、河野裕子が母の歌、家族の歌の優れた読み手であることは論を待たない。しかし、彼女の歌はもっと多面体で読まれるべきだ。吉川のこの論はその大きな一歩の予感がする。

2022.11.11.~12.Twitterより編集再掲