『短歌研究』2020年10月号
①安物のブラウス着てゐし頃の恋 祇園祭の宵々山に 栗木京子 若かった頃を美化せずに詠う。祇園祭の宵々山は山鉾巡行の二日前の夜で、恋人との大切なイベントの日。おしやれしたつもりが、今から考えるとずいぶん安物のブラウスを着ていた。そんな自分を思い出し少し愛おしむ。
②桑原憂太郎「ありのままの〈わたし〉を詠うには」〈写生に徹した叙景描写だとしても、主体が視覚を通して認識した状況を、主体の代わりに詠み人が「記述」した、ととらえられよう。〉面白い考え方。短歌を作る際の作者が二重構造になっているような印象。
③高良真実「短歌が民衆詩であるために」〈”歌人”とされる人々の出自には、人口比に還元できない程度の大きな偏りがある…〉昭和短歌の見直しの部分。(抄出なので全体の構想は分からないが。)自明なようでいてあまり誰も触れていないところに切り込んでいると思う。
④山田航「特集:短歌評論の責任」〈漢語の代わりにカタカナ語をヨソユキ用の「名詞」として導入し、フダンに絡め取られることを避けながら口語化を推し進めたのが、八〇年代のライト・ヴァースだった。〉カタカナ語が漢語の代わりという捉え方が面白い。「名詞」としてという点も。文体を理解しやすい。「ヨソユキ・フダン」と口語の関係についてもっと読みたい。
⑤寺井龍哉「特集:短歌評論の責任」〈短歌を説明し、批評することは、多かれ少なかれ、歌の表現の内奥に入りこむことに他ならない。この時読者は、歌の表現から浮かびあがる「一人の人」の側に身を置くことになる。〉たしかに、読むことで既に作者と自分を重ねる傾向がある。
その重なりから生じる問題については続編を期待していいのかな。余談ですが、タイトルの「作者は読者で読者は作者」は昔のドラマ「おれがあいつであいつがおれで」が元ネタでしょうか。本筋では無い話ですがね。いつも気になる。
⑥三上春海「特集:短歌評論の責任」〈古典を論じなくても歌人としてメインストリームに立つことができるという可能性の開拓とモデルの提示、これこそが穂村の(あるいは〈場〉のニューウェーブの)最大の遺産ではないか。〉近代歌人や塚本は古典称揚のイメージがあるのだが、80年代の頃まで、古典を論じない者はメインストリームに立てない、というような風潮があったというようには私は意識していなかった。もうちょっと詳しく知りたいな。
⑦松岡秀明「特集:短歌評論の責任」 松岡は三点に絞って短歌評論の責任を書いている。とても分かりやすい。〈短歌評論を書く者は(…)短歌についての知識を持たない読み手にも届〉くように書くべきだ、の部分には両手を上げて賛成だ。
⑧土井礼一郎「特集:短歌評論の責任」〈すこしずつ角度を変えて設置されていくひとつひとつ小窓を、評論は歌人らのあとをしつこく追うようにして開けて歩かなければならない。〉原爆詠についての論だが、どんなテーマについても言えることだと思う。窓を開ける、の比喩は適切だ。
⑨現代短歌評論賞の題は「短歌のあたらしい責任」で、過去の受賞者への題は「短歌評論の責任」とずらしてあるところがミソ。どっちにしても責任の一語は堅くて重いが・・・。短歌は責任に委縮せず自由に詠まれていいが、評論はそれを回収する責任がある、と今回読んで思った。
⑩渡辺幸一「イギリスは児童虐待の問題にどう取り組んできたか」〈彼女が虐待を受けていたことに気付きながら、有効な手を打てなかった社会福祉の担当者はきびしい世論にさらされ、処分を受けた。〉イギリスでもそうなのか。それでも福祉司の数を確保できる秘訣は何だろう。
2020.10.8.~11.Twitter より編集再掲