河野裕子『桜森』11
こゑ持たぬ死者のしづかさ 炎天にわれは醜き無用の耳持つ
死者はもう話すことは無く、生者はその声を聞くこともない。死者の存在は清く静か、生者は騒がしい。生者同士なら必要な耳も、死者に対しては無用だ。炎天に突き出した自分の耳を、醜いものと主体は感じているのだ。
手を繋ぎ寝るといへども寝返りてかくやすやすと子は身を離す
おそらく子の方から、寝る時に手を繋いでくれと言って来たのだろう。その通りにしてやったのに、先に寝てしまった子は寝返りをして簡単に身を離してしまう。それだけのことに、主体は自分と子の関係性を見ているのだ。
ざくろ樹に千の朱花あり夜のねむり苦しきほとりに落ちたまりつつ
初句二句の言葉遣いが美しい。ざくろの硬い花がぽとんぽとんと、眠りのほとりにある主体の意識に落ちてくる。何か苦しい思いがあるのか。眠れずにいるかすかな意識にざくろの花が溜まっていく。
人をらむ廊下に把手(ノブ)のみ輝けり屍室はこの階のどこかにもある
誰もいない廊下にドアのノブだけが光っている。死者を寝かせている部屋はこの家のこの階のどこかにもある。自分の家の廊下を特異な視点から眺め、不気味な描写をすることで、不安定な心理を描き出す。
月面の山脈(やまなみ)あをくうるめると髪のびそめし子を抱き上ぐ
月面に見える山脈が青く潤んでいると、子を抱き上げて見せてやる。子は幼く、まだ髪が伸び始めたばかりだ。この歌は、寂しく自死した友を悼む歌群の中に置かれている。生きていくことの儚さ美しさに溢れた歌。
この歌は、角川『短歌』2020年2月号の「河野裕子の喜怒哀楽」でも取り上げた。あまり、他に取り上げられているのを見ないように思う。
わが背後びつしり実りし暗緑の梅林ありて道はここまで
梅林を抜けて道の終わるところまで来た。その事実と、背後にびっしり暗緑の梅が実っている、という描写に齟齬があるのが一首の魅力。行き止まりの道を行く、主体の後ろ姿を、梅が意志を持って見ているような不気味さがある。
登りても登りてもなほ坂は坂われみづからを灼く血が苦し
喘ぎながら急坂を登っている。登っても登っても坂が終わらない。火照って血が熱くなり、自分の身体を焼くような苦しさを感じている。実際に坂を登っている場面なのだろうが、一首全体が生きることの喩のようにも読める。
2022.2.24.Twitterより編集再掲