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『塔』2021年8月号(2)

脳といふ冥い臓器よりふと漏れて昔のひとはいきいきとをり 祐德美惠子 普段は忘れている人のことをふと思い出す。それが脳から漏れると表現する。脳を臓器、冥い臓器と捉えたのがいい。内臓の一種のようで、しかも中が見えないから冥い。考えてみれば、胃も腸も中はカラなのだ。

立っていても仰向けでいてもつらつらと涙は下へと落ちてゆく 宇梶晶子 重力の関係で、と言えば当たり前だが、立って、仰向けになって、どんな体勢でも涙が溢れてくることを詠っている。涙が止まらない。つらつらと落ちてゆく。原因に一切言及しないため、誰もが自分を重ねて読める。

 初句二句は六・八でやや重め。結句は字足らず。下句を七六で読めば、やさしい感じ。八五で読めば、不足感を強く感じる。些細な差ではあるが。

この夜を覚えておくれ火の色も水車がまわるかそけき音も 小松岬 英国ファンタジー小説のような一首。水車のかすかな音が聞こえる静かな夜に、火を囲んで座っている。この夜を記憶してくれと、共に火を囲む相手に告げている。現実と幻想が混じるような不思議な一連だった。

近づいてゆく時君のなかで鳴る曲を知りたい春風として 奥川宏樹 主体が近づいてゆく時、「君」の中で何か曲が鳴るように思えた。その曲が何か知りたい。主体が人間として君に近づいたと思ったが、結句で「春風として」近づいたのだと分かる。風が君の中にある楽器を鳴らしたのか。

しやぼん玉ゆらりと我を離れゆく山を歪めて海を歪めて 廣鶴雄 しゃぼん玉が自分から離れてゆく。しゃぼん玉の表面に映った風景は歪んでいる。山も歪み、海も歪む。風に吹かれるともっと歪む。ただそれだけを詠った歌だが、主体の心の中の何かも歪んでいるような印象を受けた。

春の夜の柱時計のねぢを巻き貝に生まれたやうなさびしさ 千葉優作 時計のネジを巻いた後、貝に生まれたような寂しさを感じた。上下が「巻き貝」と繋がっても見える。貝に生まれた寂しさは、埋めようの無い、冷たい孤独。海中でひとり呼吸する。春の夜の底にうずくまって。

水澄める汽水に映る橋影をかすかに揺らして夏潮満ちる 吉井敏郎 汽水に映った橋の影を揺らしながら潮が満ちてくる。「水澄める汽水」がとても雰囲気がある。汽水と海水の混じる水域なのだろう。その差異はどうやって分かるのだろう。色が違うのか。見た者だけが描写できる場面だ。

2021.9.28.~29.Twitterより編集再掲