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『歌壇』2021年6月号(1)

ゆうやみを白猫来たり舗道から足を剥がしてまた貼るように 吉川宏志 夕闇なのでまだ暗くなりきっていないところに白猫が現れる。その歩き方が比喩により眼前する。吉川の比喩を読むと「私も前からそう思ってた」と思うほど感覚に合うのだが、自分ではこうは詠めない…。

②島田修三「古代の時空、光と影」闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや 紀郎女〈古代の男たちが恋人のもとへ通うのは原則として夜なのだが、魔の出没する闇夜には外出しない。〉案外分かっていたようでわかっていなかったこと。闇夜には逢瀬は無いのだ。

闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月もはやも照らぬか 作者未詳〈雨か曇り空なのかもしれない。(…)早く月が照ってくれないと、恋人は来ない。〉月に照ってほしい。そして恋人に自分のところへ来て欲しい。こんなイライラした気持ちで古代の女たちは月を待っていたのか。

一首目の紀郎女の歌の方が辛いな。月は照ってるし梅の花も咲いているのに、あなたは来ない。メールの返事が来ないとか、現代でも小道具が違うだけで気持ちは同じだろう。しかし待つ時間の長さがとても長い。寿命はずっと短かったはずなのに。

到りつくいづこも闇と知る我のまたうば玉の墨磨りはじむ 安永蕗子:久々湊盈子〈世間的な幸を求めずひたすら歌と書に向かった人であった。〉世間的な幸せであっても、到りつくところは闇なのだ。初句二句の悟りに共感する。

④津金規雄「時評」どんよりと空は曇りて居りたれば二び空を見ざりけるかも 齋藤茂吉〈言葉として気を付けたいのは、むしろ「どんよりと」である。口語の使用、口語的発想が当たり前となっている現代にあって、かえって「どんよりと」の意義は見えづらくなっている。〉

このあと津金は茂吉の自歌自釈を引く。〈「どんよりと」という現代語と、「見ざりけるけるかも」という万葉調とがどうにか調和しているところにこのあたりの歌の特徴があり、感じも近代的で、調べも堅く厚くなっているようにおもえる。〉

茂吉が口語をどう捉えていたか、だけをコンパクトにまとめた論がないものかな。口語短歌歌人と激しい論争をしながら「どんよりと」は使うとか、その辺の考え方を時間軸に沿って整理した論があったら読んでみたい。

2021.7.4.~6.Twitterより編集再掲