Twitter事始②角川『短歌』2019年7月号に寄せて
角川『短歌』2019年7月号の「歌壇時評」で、睦月都が「アーカイブとアクセシビリティ」というタイトルで書いた記事に、大きく心を動かされた。
〈(・・・)短歌資料の入手しづらさ、アクセスのしづらさはどうにかできないものかといつも思う。歌集・歌書は少部数発行のためすぐに絶版になって、たいていは重版もかからない。総合誌を置いている書店が少なく、図書館にもなかなかない。あってもここ数年のものしか保存しておらず、過去の言論を知りたくても知ることができない。そのような理由から評論へアクセスしづらく、議論が蓄積していかない・・・・・・。短歌をやっていると常につきまとう問題だ。加えて、個人の居住地域や情報リテラシーの肯定によって資料へのアクセスが著しく困難になる場面も多くあり、事態は深刻である。〉
さらに、睦月は、前項で触れた「『現代短歌を評論する会』を読むつどい」で、三上春海が「短歌批評史(短歌史ではなく)の試み」や「代表的な批評・評論を集めたアンソロジーの刊行等による批評へのアクセシビリティの向上が必要」ではないかと提案したことにも触れている。
〈ここまでに出た話題はベクトルこそ異なるが、根本的には短歌のアーカイブ(保存記録)とアクセシビリティ(情報へのアクセスしやすさ)の問題に集約するだろう。〉として問題を①短歌の流通に関わる問題、②短歌のアーカイブに関わる問題、③地方格差、デジタルデバイドに関わる問題、と3つに腑分けしている。
「現代短歌」7月号に続いて、若い世代の分析力、思考力に圧倒された。そこに述べられていることは私の考えと全面的に一致していたが、私自身はそれに対して、問題意識を持って見ることも、ましてや言語化も出来ていなかったのだ。何度も何度もうなづきながら読んだ。
特にアーカイブ化ということが心に響いた。評論を書く時に、〇〇という評論がある、ということを知っていても、それを原文で読むのはとても難しい。かなり大きな図書館に行かなくてはならない。
それでも短歌史に残るような論なら何とか読めるが、最近の論となると全く誰も史的にはまとめていない。篠弘がまとめたところ(60年代、70年代も少し)で止まっている。80年代以降は2020年の現代に至るまで、歌壇横断的にまとめた批評史は書かれていない。また、そうした批評史は、80年代あたりからのネットの拡がりによって、ほとんど網羅することが不可能になっているとも思える。
では、どのように解決すればいいのか。2つのことを考えた。
1つ目は、自分でできることとして、現行、発表されている時点から、評論について、何か発言していく、ということ。いつか評論史が書かれることを見通して、現在書かれている評論に付箋をつけていく、という考え方だ。評論とまではいかない時評や、小さなコラムでも、とにかく、今読んでいる総合誌や自分の属する結社誌『塔』についてTwitterで発言していこう、と決心した。
実際にTwitterを始めてみると、評論より歌に言及することが多かった。それでも、現行の総合誌に付箋をつける気持ちで、とりあえず1年は継続している。
2つ目は、歌壇横断的なデジタル・アーカイブを作れないか、ということを考えた。それについては次項「note事始」で詳しく触れたいと思う。