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『短歌春秋』2020年10月号

「特集 河野裕子先生没後10年」

①10月号だけど……。冬休みになってようやく手に取った。河野裕子ののことばが多く収録されており、心にしみた。

②「病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ 河野裕子」三枝昻之〈字余りは定型に戻って受ける。〉字余りはどこまでゆるされるのか、に三枝はいつもこの歌を例に答えると言う。大幅な字余りでも短歌と感じられるか感じられないかの、一つのヒントになる。

③関谷啓子の文より河野裕子の言葉。〈生活実感のある歌はいつ読んでも良いものですね。体調が戻らずこの(NHK学園の)選歌が重荷になったこともありましたが、皆様に励まされ、お見舞いのお便りなど読み選歌が進んだのは自分でも意外なことでした…〉講師と受講者の双方向の関係。

④「河野裕子先生からのメッセージ」〈歌を作るのは、歩くことと同じことです。〉〈多作をしているとどうしても駄作、凡作ができてしまいますが私はそれでいいと言うのです。〉〈何か一つのことが出来るには、やり続ける時間と量が必要なのでしょう。〉〈短い詩型だからこそ、表現したことば以上のものを伝えることができる。〉〈いい歌を作ろうと思うから出来ないのです。〉〈書き写すという作業は不思議な効果をもっているようで、書いているうちに作者が自分になったような錯覚におちいることがよくありました。〉〈自分の歌の良し悪しが分からない。(…)これは、歌だけの問題ではなく、自分という人間が自分にはいちばん分からないものだからかもしれません。〉〈短歌は感動を詠むものだという先入観がこのような言葉になるのでしょうが、この小さい詩型になまの感動がそのまま表現できる筈がありません。〉〈苦しみのただ中で歌を作ることもあり、そういう歌には技巧の巧拙を越えた迫力がある。歌を作りそれを書きとめておくことは、喜びを濃くし、悲しみを薄れさせてくれる。そして、読んだ人のこころを慰めてもくれる。表現とは不思議なものだ。〉〈多くの読者のなかの誰かひとりでも自分の歌を読んでくれ、共感してくれた時の喜び。日頃、思っていたことを自分に代わってうたっている歌に出あったときの共感となつかしさ。短歌が長く続いてきたことの意味は、このあたりにあるのかも知れません。〉

河野裕子の言葉。私自身のために書き写した。

2020.12.30.Twitterより編集再掲