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『歌壇』2021年9月号(1)

 今日、田んぼの中の道を車で走ったら、もう彼岸花は枯れていた。今年はちゃんと見てない。しまった。

①「ことば見聞録第三回」川野里子〈布を織るのは長い時間かかるじゃないですか。(…)こんなに瞬間瞬間だけが大事になってしまっている時代にとってそんなふうに物思いを紡いでいく、〉紡ぐって現代ではほとんど比喩でしか使われない気がする。しかし確かに織物は時間の堆積だ。

②「ことば見聞録」井上弘美(俳人)〈句座においても、互選の得点は一つの評価ですが、指導者による選はそれを超えるものです。初心者の選も、指導者の選も、得点としては一点であるということは平等ですが、果たしてそれでいいのか。〉これは短歌にも同じ問題を突き付けてくる。

 短歌の歌会でも、最近は選者の選や選評は絶対、という空気は薄れているように思う。「果たしてそれでいいのか?」元々はあったし、それで自分は育ってきたと思っている。井上のように「指導者による選はそれを超えるもの」と今も自信を持って言い切れるのは幸福だと思う。

③「ことば見聞録」井上〈伝統派は季語を比喩として使ったときには、季語としては働かないという考え方です。(…)それは季語というより詩としての言葉なのだと思います。〉この辺の季語の話はすごく面白かった。短歌と俳句の根本的な違いだと思った。季語に対する絶対的な信頼。

井上〈リアルなものの姿に、圧倒的な存在感があるのです。ですから、むしろ比喩は弱いのです。〉私は俳句の伝統派とそうでない派について何も知らずに書いているけれど。リアルを重視する姿勢と季語の関連についてのこの辺りの言及はある意味凄かった。誉め言葉として言うけど、とてもできない。

④「ことば見聞録」井上〈川野さんの短歌は全く五七五にはならない。ものすごく短歌性が強いんですね。言葉が非常に厳密に使われていて、置き換え不能です。〉この反対が、「動く」という批評語だだろうな。私が短歌を始めた時はこの「動く」をよく聞いたが、最近聞かなくなった。

井上〈二物俳句、つまり取り合わせの場合、短歌の七七の部分を受け持っているのは季語かなと思うんですよね。〉そこまで!?季語スゲー。

⑤「ことば見聞録」川野〈今、短歌を概観すると、いろんなことが詠われているようだけど、今という時代について詠っている一つのアンソロジー化していると思うんですね。〉集団的無意識ということだろうか。「塔」の受賞座談会でも似た話が出ていた。

井上〈事象を詠まないで、事象を、切なさも苦しさも全部グーっと自分の中に沈めて、自分の中に引き受けた目で見た「もの」を詠もうよと、伝えています。〉湿ったものを自分の中に沈ませて、乾いた目でモノを詠む、か。湿ったまま全部吐き出したいタイプなので、この意見にはかなわないなあ。

川野〈短歌は現実を描写することが現実を描写しているのではなくて、自分の心の素描をしている。結局何を詠もうと、見たものを見たままに表現しましょうと言った時に、結果として表現されたものは自分の心の素描にすぎない〉これ、ね。最近特に思う。
 俳句の器の大きさの分かる面白い対談だった。

2021.10.3.~6.Twitterより編集再掲