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『現代短歌』2021年5月号(1)

①和合亮一「三月十六日、静かな夜に」〈ヴァイオリンを愛でるかのようにパソコンを片手にして、逃げ回りながら打ち続けた。涙が出てきた。指が言葉の速度に追いつかなくなった。〉『詩の礫』の生まれた現場を再生した文。引き込まれる。

 〈貧困や戦争や、失恋や失職や、青年期の葛藤や、時代と人の荒波に揉まれて、ただ言葉にしがみつくようにして、誰にでもなくあくまでも自分のために書くという思いに駆られた経験が、人生の中にあったのではないか。…それが人や時を超えて今を生きる人間の内側に光を投じようとするのではないか。〉

 この文章そのものが詩だと感じる。〈揺すぶられる日々に、ツイッターにずっと書き続けることが出来たのは、140文字という字数制限があったからである。私にとってこれらは定型といえるものであったのかもしれなかった。〉これはまさに私のツイッターに関する気持ちそのものだ。140文字という定型だ。

②川野里子・高山れおな「短詩型にとって東日本大震災とは何だったのか」とても考えさせられた対談。心に残った発言を引く。

川野里子〈日本全体がさぞや被災地になっているだろうと思って帰ってきたら(…)被災地をずらしながら、辛うじて日常が保たれていた。驚愕しました。〉

高山れおな〈作家的野心をもたない人たちの表現は基本的にこれなんですよ。大変なことがあったけれども、自分は生き残って(…)定型がおのずから導いてしまうその種の感慨のパターンを出ないものがほとんどです。(…)表現としての完成度もあるわけで…〉作家意識の有無。修辞、表現に対する考え。

高山れおな〈小笠原弘子の句がやや具体性に欠ける理由としては、一つには技術的な力量不足もあるかも知れない。しかし、より本質的には体験が深刻すぎて具体化を拒む面もあるのではないか。〉これは震災体験だけに限らない話だと思う。

2021.4.5.~6.Twitterより編集再掲