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一人の男が守った町・倉敷を歩いた旅

倉敷を旅した日。
街並みの美しさに息をのみ、江戸時代に思いをはせました。
西洋美術を見てヨーロッパに思いを巡らせました。
今はそこで過ごしたかけがえのない時間を抱きしめます。

倉敷にはかつて行ったことがありました。
ところが家族3人で訪れた時に、初めてのように目が開かれました。

美観地区はこんなに奥が深かったっけ?
歩いても歩いても途切れることのない蔵の壁。
どこを切り取っても絵になる風景。

かつてはこの美しさを流し見していただけだったのでしょうか。
修学旅行の京都のように。
あまりにもったいなかった若き日々に今さら苦笑します。

大原美術館のコレクションを眼福✨

蔵の町に違和感なく建つ、堂々たる西洋建築・大原美術館。

エル・グレコの受胎告知があまりにも有名ですが、すぐれた印象派なども多く所蔵されています。

ゴーギャンのかぐわしき大地、セザンヌの水浴、モネの睡蓮・・・。
下記のリンクより、作品を見ることができます。

日本美術にも素晴らしい作品が並びます。
青木繁、萩原守衛、岸田劉生、佐伯雄三・・・教科書にも出ている画家の多さよ。
工芸にも素晴らしい作品が並びます。民芸もいいものがありました。
特に河井寛次郎は圧巻。

現代美術や東洋美術、イスラムまで幅広く収集されています。

息子もかなり熱心に眺めていました。

倉敷を守った男と美術品

堪能した後、町並みを歩きます。

江戸時代に天領(幕府の直轄地)となり、物資の集積場として栄えた町。
当時作られた多くの蔵が残っています。

蔵の町は昔、いくつもありました。
今も残っているところは少数です。
ほとんどの地が第二次大戦で爆撃を受けたからです。

なぜ倉敷は残ったのか。

一説にはここに優れた美術品が集められていたからといわれます。
美術品、特に西洋美術を破壊しないように爆撃が避けられたらしい、と。
確たる証拠はないようですが、そうだとしたら美術品収集を始めた大原孫三郎(1880~1943)が倉敷の町を守ったことになります。

大原孫三郎は大地主で倉敷紡績(クラボウ)を起こした大原孝四郎の三男です。若い頃は東京で遊興に身を投じ、倉敷に連れ戻されて謹慎処分を受けました(大原美術館のHPに書いてあります😆)。大借金もあったようです。

その後、悔い改めて明治40年前後から昭和にかけて実業の発展に身を尽くし、社会事業にも取り組んだそうです。
児島虎次郎という画家を支援し、彼の進言により美術収集を始めます。

ただ勧められたからといって集めたのではないことは、その後の継続性や着眼点、息子や子孫へと引き継がれる美意識にうかがえます。

意識せずとも一人の男が守った町並み。
そう思うと町の見方もまた変わります。

ひとりの人が成しえることはどれほど大きいのか。
逆に世界中の多くの町が一人の人間によって破壊されていることを考えると、今も美しい町と美術品を見ることができる幸運に身が震えます。

倉敷の町は、保存のために通り一本だけが美しく残されているわけではありません。
路地を曲がり、歩いても歩いても蔵やなまこ壁が連なります。
その奥深さ。ギャラリーに、旅館に、カフェに、今も活用されている街並みにうなります。

大原美術館が目的だった旅は、眺めるだけで陶然とする街歩きへとつながったのでした。

家族それぞれ「あそこまで歩こう」「ここの写真を撮っておこう」と夢中。建物を探したい、立ち止まってゆっくり眺めたいと、せめぎ合いながら過ごしました。

パフェにもうっとり🍨

一息つきたい、とカフェへ。
果物のおいしい岡山、3人でパフェをぱくつき、これにも大満足💕

20201230倉敷パフェ (2)

私が選んだのはシャインマスカット。一番大きいのは息子です😊
あきれ顔だった夫も、結局頼んでいました😆

その後、腹ごなしに夜の町をそぞろ歩き。

今度いつ家族で、日本のどこかを旅できるでしょう。
もう息子はつきあってくれないかもしれませんね。
旅したことを大切なアルバムにしまっておこうと思います。

20201230倉敷夜景


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