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得るものと失うもの


自分は、
71年生きてきているけれど、
何が出来たのだろう?
息子たちは成長したけれど、
まだまだ母親の気持ちは失えない。
振り返ったら、
関わらせていただいた方もいたけれど。
決して多くもなく、
親友と言えるような存在も少なく、
濃厚な生き方も出来ていない気もする。
言えることは、
その都度、
自分にもお相手にも忠実であったこと。
20年もの年月を、
福島の実家だった場所と千葉を往復出来たのも、
誰かが見守ってくれていたから。
そして、
理解を示してくれていた家族がいてくれたから。
当時、二男は高校生だったはず。
このことは大きなことで、自分自身も支えられていた。
そんな気持ちで感謝している。

さて、
タイトルの話。
自分だけのことなら、
得たものはあったけれど、失ったものなどないと思える。
あっ!父以外...
話が長くなるので、お付き合いしていただけると幸いです。
父が他界した年は、
今思えば辛抱の年であり、試練でもあったし、
試されていた年だった気もする。
その年の初め、
自分の意思で、太ももあたりの静脈瘤のちょっとした手術を受けた。
山歩きがこうじたのか、
クリニックの先生も驚くほどの症状だった。
そして、
夫が6月に退職を迎えた。
大きな病気にも侵されず迎えられたことは、ありがたいことだった。
ただ、
夫も股関節の痛みを抱えていて、
退職とともに整形外科を受診したら、
「末期ですね。手術しましょう」
そんな風に告げられて、
6月末に手術日が決まった。
そのことと重なるように、
田舎では、父も股関節を骨折。
本人の意思で手術を選択した。
勿論、車で駆けつけて手術に立ち会った。
手術は、横浜からの名医の先生が田舎まで来てくださって執刀してくださった。
リハビリに移った父を、
夫の手術の前に見舞いに出かけた。
ふたりで。
あまり食欲もなく、
元気とは言えなかった父と面会。
お土産に持っていった和菓子を、
口にすることもなかった。
そして、
千葉に戻って夫の手術が行われた。
1週間ほどで退院になったけれど、
その間に、
長男が父(祖父)に会いたいと言うことで、
福島へ同行した。
そして、夫の退院。
やれやれと思った直後、
福島の父の訃報が届いた。
夫を1人残して、
福島に車を走らせて、告別式を済ませた。
数日後千葉へ戻ったら、
体が悲鳴をあげて。
足のかかとに痛みが出た。
みるみる悪化して、
足の底の神経に激痛が走った。
整形外科へ行ったが、
原因不明で、
リウマチの検査も受けることに。
あっという間に数ヶ月が経ち、
11月の長男の結婚式を迎えていたけれど。
「出席できない」と夫に伝えた。
「そうはいかないよ、連れていくよ」
このことは、
以前にも触れているので、あしからず。
何と、
お礼のご挨拶をおおせつかった。
きっと目標があれば行く気持ちになるだろう。
そんな夫の考えにまんまと...
当日は、
松葉杖の状態で、
千葉から横浜までタクシーで。
ステキな江戸褄を着せていただいて、
来客のテーブルも回ることが出来た。
練習をしていった母親としてのご挨拶も、
何とか行うことが出来た。
松葉杖の自分を、
二男が心配そうに見守っていたけれど、
当の自分は、
割と元気だったし。
またいつか、
山へ行けると信じて疑わなかった。
単なる予感。
春に向かってリハビリを重ねて、
すっかり落ちた筋肉、
かつてのように歩ける自分を取り戻したかった。
4月には、
ジムへも復帰できた。
この年は、
立山あたりの室堂を歩くのがやっと。
それでも心が喜んでいた。
翌年も室堂から雄山あたりまで、
登ることが出来た。
筑波山でのトレーニングが効果に繋がり、
翌年、つまり3年前は、
奥穂高岳を目指すまでになった。
そして、
昨年は白馬大雪渓を登って、
白馬三山を歩くことが出来た。
そして、
自ら希望した今年の北穂高岳。
転々と泊まりながら、目指すことが出来た。
下山では、6時間かかったけれど。
このためにトレーニングしてきたことの効果があったのか。
心は満足だったし、槍ヶ岳からのキレットも見えて感慨深い気持ちだった。

自分の解釈は、やや不思議で。
あの激痛は、
父を失ったことの悲しみだった気もする。
誰かのせいでもなく、
何かのせいでもなくて。
こんな風に解釈すると、
素直に心が落ち着いて納得出来るのだ。
激痛という経験をしたけれど、
得たものは多いし、
無くしたものはないと、
素直に思えるから。
好きなように生きられているのも、
夫の優しさもある。
この先のことは分からないけれど、
ささやかな幸せの毎日に、
失うものなどないと思えている。
話がとても長くなりました。
どんな捉え方をするか、
出来るかは、
自分自身のこころ次第ですね。
そんな面持ちでこれからも過ごしたい。
失ったと感じると、
取り戻したいと言う思いばかりに囚われてしまう気がする。
だから、
自分なりの生きてきた過程で、
得たものの方がはるかに多いと思えている。

ありがとうございました。

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