存在と世界 3
第三:他者とはいかなるものか
1.なぜ歓待が求められるのか
歓待とは、他者の無限の呼びかけに、できる限り応答することである。他者による無限の呼びかけの全てを、私は全て応答することが出来ない。私は有限であるから、他者の無限に全て応答できないのは当然である。しかし、他者はそれにもかかわらず、義務として私に「〇〇せよ」と呼びかけてくるのである。加え、私による他者への応答とは常にエゴイズムである。私の理解による他者を、その応答の中に媒介している。だが、他者は、私による完全な理解を拒絶している。したがって、他者に対する歓待には常に不完全が生じるのである。にもかかわらず、歓待が他者との関係において求められ、それが現実的に可能なものとして考えられているのは、歓待を求めることによって、他者との対話が可能となるからである。他者との対話は、先述した通り、自己と他者との相違によって可能となる。そして対話とは言語によってのみ可能な作用であるのだ。
自らの感覚的確信は、他者との感覚的確信とは差異がある。加えて、ほかの他者との間にあってもまた、差異があるのだから、それについて発見される属性や価値についても当然異なる。したがって、感覚的確信によって発見された属性や価値、というもの自体は、他者との共有が不可能である。
言語は、属性や価値を単なる理解可能な存在として、その言語作用によって生成されたテクストを通じての相互理解を可能とする。であるから、自己と他者との対話を可能とするのは言語のみなのである。しかしながら、言語による他者の理解とは、あくまで自らの意識における理解である。つまり、自らによる他者の理解は、常に現実の他者との相違を生じることとなる。この際に生じる相違を解消せず、むしろ深めつつも、決して他者との関係を断絶しないような関係こそが、対話であり、それを可能とするのが歓待である。
社会は、異なる他者同士で取り結ばれる関係性の集合である。であるから、社会とは常にその内部に相違を孕んだ集合である。社会が常に安定的で、調和したものであるためには、むしろ異文化の存在を必要とする。社会が安定的であるためには、その社会において主要であるとされている文化の支配的権威は必要ではない。社会は、多文化同士の緊張関係を孕みながらも決して現実の暴力には転化しない摩擦関係によって、安定する。この際、このような関係を可能とするのが、歓待なのである。
2.歓待とはいかなるものか
歓待とは、他者の呼びかけに応答しようと試みることでありつつ、また、他者との間にある相違を、深めながらも決して断絶しないようにすることなのである。私の世界観の中に、私では無いものや他者の存在が入ってくることを許容すること、他者に対する完全な理解を求めないこと、他者を自らの中に迎え入れること。これこそが歓待なのである。歓待とは無限の行為である。であるから、歓待は決して完成することがない、常に不完全な行為なのである。
3.他者に対する責任とは何か
自己は、他者や、自らに媒介する全ての存在者に対して常に責任を負わなければならない。責任を負うとは決して、「自分の手で物事にケリをつける」ということを意味しない。ここではあくまで、「自分ごととする」という意味である。私自身は有限であり、決して無限に、行為をなすことも、自らの意思のままに行為することも出来ない。だが、私は、私の生活する場における全ての存在者を媒介して、存在している。私が私として存在し続けるためには、他の全ての存在を媒介することが必要なのである。
さて、媒介するということは、私の一部とすることでもあるが、「他者」は決して私の一部とはならない。この際、私の一部となった他者のことを、「裂傷」としよう。裂傷は、私という有限性にあって、無限の他者との関係を可能とするものである。無限の他者の呼びかけに一時的にでも答えられたという喜びと、その呼びかけに答えられなかった、という悔恨こそが、裂傷から来るものなのである。だが、裂傷においては、喜びよりも、悔恨こそが最も重要な要素である。
喜びとは一種の充足であり、ある種の有限性の中にあってそれに満足し、そこから抜け出そうとしないことである。対して、悔恨とは、無限の後悔と、問責の中に自らを置くことである。悔恨にあって私は、有限でありながらも、無限に少しでも近づこうと、試み、「私はもっと上手くやれたのではなかったのか」と問い続けることになる。これこそが「責任を負うこと」そのものなのである。有限の中にある自己が、いかにして無限を実現しようと試み、そして失敗するか。これを無限に繰り返すことが、責任を負うことの本質なのである。
4.裂傷が癒されることはあるのか
結論から言えば、無い。裂傷が癒される、ということはつまり無限の他者の忘却であって、私にあって他者との関係を廃棄するようなことであるからだ。だがしかし、裂傷を持ちながら、希望を持って生活していくことは可能である。
希望とは、未来に向かって自己を展開させようと望む意識の欲求である。未来とは常に「未だ来ない」もの、として常に未来であり続ける。だから、未来とは無限に属する。一方、悔恨とは過ぎ去る過去に固執し、その過去の追憶の中に閉じこもっているような行為にすら思える。だがしかし、悔恨の中で繰り返される「私はもっと上手くやれたのではなかったのか」という反省は、未来に向けられたものである。つまり、この反省はやがて「次はもっと上手くやろう」という希望に転化する。もちろん、そのように転化したところで、悔恨は、悔恨のままで、過去に対して向けられたものであるし、「次からは上手くやる」としたところで、裂傷が癒されることは無い。しかしながら、希望に転化した悔恨は、私の中にあって、私に対して、悔恨という否定的なものでありつつも、希望という肯定的なものとして関わってくるのである。