初時雨利仁
A.日常性の分析1.可算性 日常的な在り方、我々がさしあたりその場所にいるような領域における我々の在り方について考察するのであれば、それは、我々自身を、資本主義の機械的な無限反復のうちで等質化された非人間的事物へと解消し続けるような傾向性を、本性として有する存在であるということができる。このような傾向性は、重力が物体に固有の質量に対して、いかなるほどの力であろうとも、必然的に物体に働くように、我々自身の存在に対して必然的に働くものである。(注:この「重力」の理解は、表層的
1.直接的実在者における弁証法的規定α.実在の考究の為の準備考究 われわれにとって、もっとも身近にして手元にある実在者とは、われわれの各々の実在である。あらゆる哲学どころか、われわれのあらゆる経験と知覚が、われわれの各々の実在を基礎として要請する。このような実在者の実在、われわれの各々にとっての「私」の実在こそ、われわれが考察するあらゆる考究の営為において最初の原理(第一原理,primal principle)として打ち立てられなくてはならない。 さて、このようにして打ち
自己啓発、とは一体何なのか。その言葉の語感からして、本来的にその意味は「自己を啓蒙する」こと、「自らをより高い次元へと押し上げること」という意味に近接するのだろう。さて、その「高い次元」とはなんなのか。少なくとも全ての人にとってそれが、「出世」だとか「成功」に当てはまるものでもないのは当然のことだろう。大体の出世を求めない人、つまり私のような凡人にとって見れば、出世とは割に合わない給料と、食べられないくせに価値だけは高い名誉と、その名誉の分だけ過重な責任を押し付けられる不幸の
第一:anderesな他者1.単なるanderesな他者(他-人)と、fur mich sind sinnな他者(他-者)の区別 前の論考はこのふたつを混同して訳が分からなくなっていた。というよりも、fur michな他者に対するものをanderesな他者にやってしまうのは単なる忘我であったり自己の喪失である。他者に「対して」何かを為せるのは、どこかに「主-客」もとい「我-他」の構造が規定されているからであり、やはり「我」というものが規定されていないと「私にとって」他者はあ
はじめにこの論考は、先日投稿した『存在と世界』において、とあるDiscordのサーバーにおいていただいた指摘や質問を元にして、私自身でも再読と再考を加えながら記述したものである。この論考は、『存在と世界』における存在とその認識、加えて「世界」についての論考を抽出しつつ、指摘された部分を踏まえながら加筆修正を加えたものである。この論考においても、指摘された部分の全てを反映しきれているかは怪しいし、新たに加筆を加えた部分にあって、また新たな指摘箇所が現れるかもしれない。それでも、
第四:死者とはいかなるものなのか1.死と死者の存在論的考察 存在論的に言えば、死者とは非実在の存在者である。もっと詳細に言えば、かつて実在であったが、今ではそうでは無いもの、既-実在としての存在者である。しかし、これ以上に、死者とはわれわれの実在世界において、単なる非実在者よりも、遥かに深い関係性を持った存在者であると言えるのだ。 死はわれわれに確実にやってくる運命である。死から逃れられる生物は、今のところ存在しない。たとえ不老不死の生物がいたところで、それが外敵によって殺
第三:他者とはいかなるものか1.なぜ歓待が求められるのか 歓待とは、他者の無限の呼びかけに、できる限り応答することである。他者による無限の呼びかけの全てを、私は全て応答することが出来ない。私は有限であるから、他者の無限に全て応答できないのは当然である。しかし、他者はそれにもかかわらず、義務として私に「〇〇せよ」と呼びかけてくるのである。加え、私による他者への応答とは常にエゴイズムである。私の理解による他者を、その応答の中に媒介している。だが、他者は、私による完全な理解を拒絶
第二:世界とはいかなるものであるか。1.世界はなぜ存在しないのか 総体としての世界、全ての存在者を包括する形での、世界は存在しない。というのも、存在しうるもの全て、存在者すべては、世界内に存在する。総体としての世界が存在するのであれば、総体としての世界は世界内に存在することとなるのである。ただし、感覚的確信が示すように、存在者の存在自体は、確認されたものであるし、デカルト的懐疑においても、「私」の存在の確実性は、前提されている。つまり、世界が存在しなくとも、存在者の存在、
第一:存在者とはなにか1.存在者とは世界内にあるすべてのものである。 存在者とは存在するものの全て(のそれぞれ)である。存在するということは、存在しうるということである。※1 存在者しうるものは、世界のうちにある。そして、われわれ(人間だけでなく動物や植物といった、「何らかの形で存在者を捉えることが出来る」存在者)が捉えうる全てのことがらは、存在しうるものである。つまり、幻覚、妄想、空想といった、「存在しうるが、現実にはそうでは無いようなこと」もまた、存在者として扱われる
論理哲学論考についてのまとめノートを書こうかと思ったのだが、論理哲学論考は論理哲学論考単体で成り立つような本であり、これ以上、私の浅い知識では語りうることも、加えることもない。論理哲学論考に書いてあることと、論理哲学論考に書かなかったことが、この本の全て、それだけでこれは完全だ。
選択とは美と倫理の選択では無い 選択とは「美的生」と「倫理的生」の間の選択では無い。選択とは倫理的なものであるから、倫理的行為によって倫理に対立するものを選び取る、という行為は矛盾する。加えて、実存するという事実においては、美的生は選択に入らない。美的生とは空を飛べぬ詩人が、空を飛ぶ鳥から見える景色を、鳥がそう見えているかにも関わらず、そう想像しているようなものである。倫理的生は、空を飛べぬことをそのままに、地上に這うこと、「地曳亀」であろうとすることである。美的に生きている
はじめに キルケゴール、ロマン主義における「イロニー」と、現代に特有の知的態度である「冷笑」とは現象、あるいは表層的に見て非常に類似している。しかしながら、特にロマン主義におけるそれ、すなわちロマン主義的イロニーと、現代的な冷笑主義とは、質的に非常に異なったものであり、なおかつその区分においてはイロニーとの対比ではなく、同じくCynicismの語で表される「キュニコス主義」との関係において語られるべきものである。 イロニーの概念 イロニー(特にロマン主義的イロニー)と
はじめに倫理とはなんであるか。我々はいかにして生きるべきなのか、という問題は哲学においてはその草創より重大なテーゼとして取り扱われ、現代においてもその意義を失っていないばかりか、哲学にとどまらず科学、政治、スポーツ、果ては我々の日常生活にまで倫理が求められている。だが、「倫理」という言葉が何を意味するのか、「道徳」や「規範」、「哲学」とは何が異なるのかといった問題は未だ周知されていないように思われる。もし明らかにされていたとすれば、それは私自身の無知のなすところである。思潮