フィールドワークはすなわち、「人間っておもしれー!」な研究なんだなって 〜ポピュラーカルチャーからはじめるフィールドワーク〜
こんばんは。千歳ゆうりです。
読んだ本は「ポピュラーカルチャーからはじめるフィールドワーク」お勧め度は⭐︎⭐︎。7人のフィールドワークを行った研究者による体験談が詰まっている、という感じで、一つ一つの話はさっくりなのだけれど、自分にはない視点がいろいろあって面白かった、という感じでしょうか。
なんかいつのまに、「自分がポケモンGoにハマらなかった理由」を説明されていた
ポケモンGoに関するフィールドワークの章です。同書に出てくる人たちって本当に両極端で、「自分もガチのファン」か「俄かで見てみたら面白/つまらなかったので調べてみた」のどちらかで、oh……と思っていました。ちなみにポケGoに関する筆者は前者です。
こちらの章で印象的だったのは2つ。
1つめは、調査対象に5chも含めるんだ……ということ。「考察を深める端緒」として、とのことだが、なかなかに興味深かったです。詳細はぜひ読んでください。
2つめは、コアなファン(月10k課金しているような)21名へのインタビューから、ポケGoにどうしてハマったのか、を抽象化して説明してくれたことです。もったいぶらずに言えば、現実の延長として、普段の買い物や仕事帰りに少し足を延ばす、くらいの感覚で、豊かな『現実での』経験を得られるきっかけになるから、という理由でハマっているように見受けられました。具体的に言えば、知らなかった地元の名所を知ることができた、毎日ジムで会う友人ができた、といったところでしょうか。友達ができた、みたいな話はMMORPGにハマる人の特徴といえば特徴なんでしょうけれど、ポケGoのすごいところは、ある種、自分のまま、リアルアバターでリアルフィールドのままゲームができるということが、他のMMORPGとは一線を画しているのだろうな、と思いました。そして、そもMMORPGにある、ある種の現実感がすごく嫌な(現実逃避としてゲームをやっている層からすると、現実の匂いがするものは本当に見たくない)層である私が早々にポケGoから離れたのも、なんだか納得がいくなあ、なんて思っていました。
ねえ、それ、自然に入ってこない?……違和感を「あえて」感じられるの、実はすごいことでは
いわゆる「鉄オタ」に関して調べた章です。インタビュー相手は、いわゆる「鉄オタ」界隈では生き字引のようなひとで、オタクという概念のなかった……とまではいわないけれど、オタクにポジティブな印象がなく、「鉄道マニア」を自称していた頃からの生き字引さんでした。
この章のテーマは「違和感を追求すると面白いよ」なのですが、その違和感が、
宮脇俊三(鉄道紀行作品で有名)がエッセイの中で、「国鉄の分割民営化に違和感がある。ファン、利用者としての立場と、分割・民営化の立場でのギャップのような(大意)」と語られている部分を、
その鉄道マニアさんは、「趣味の人としての自分と、もうひとつの自分」の対比として受け取ったのだ、
というものでした。
簡単に言えば、「鉄道の民営化に際し、利用者/運営の対比」と、「いち鉄道マニアとしての、趣味/社会性の対比」がいまいち筆者の中で結びつかなかった、というのです。……私なんかはすごくすっと入ってきてしまったので、これが結びつかない人がいるんだ!という感動がありました。
筆者は、利用者/運営 → 鉄道マニア/会社員 → 趣味としての自分/もう一つの自分、という連想ゲームを経るまではわからなかった、と述べています。
確かに、厳密に言えば、筆者が理解するために経た連想ゲームは必要なのでしょうが、それが必要だという視点すらなかったので、しみじみとしました。そこすっ飛ばしちゃだめなんだ!みたいな感動がありました。
「調査者の立場は常に微妙」まってまってまってまって怖すぎるんだが
ジャニーズファンと京町家に関するフィールドワークの章を読みながら思ったことです。一応、最後に「ワンポイントアドバイス」として載っている文章の引用が、「調査者の立場は常に微妙」になるわけですが、いやーーーーーすごいですね、ふぃーるどわーくって。と思いました。
ジャニーズファンに関して言えば、研究の対象として好奇の目にさらされるのが嫌だ、というファンが多いので、筆者も一ファンとして丁寧に理解を求めた、という流れでした。せやな、としか言いようがないんですが、フィールドワークとはすなわちコミュニティに関する調査とも言い換えられるわけで、すなわち人であるというわけで、人間関係気を遣わないといけないんだろうな、と思いましたし、できる人たちすごいなあ、なんて思っていました。
京町家については以下の引用ですべてを察してください。「調査者の立場は常に微妙」は京町家に関する章の引用ですが、いやその、ほら、こっこっこわぁ……となっていました。
祭りは、観光客のためにあるのか、住民のためにあるのか
他に印象的だったのは盆踊りについてのフィールドワークの章です。昔は日本海側と太平洋側をつなぐ交通の要所として栄えた岐阜のある町が、新幹線も停まらず衰退していく中で、盆踊りの観光化で活路を見出した、その盆踊りに関するフィールドワークを行う、という話でした。
興味深かったのは、明治期になって、「盆踊り」には廃止令が出ているんですよね。猥雑で風紀を乱す、とかで。それを大正~昭和期に明治のときの記憶や記録を引っ張り起して、踊りの型や歌を整理し(かつては、その場でうまいやつが即興で歌いつつ、その周りをぐるぐる回り、飽きてきたら新しい奴が「オラオラ俺の歌で踊れや!」みたいに歌いだす、みたいなものだったようです)、町おこしに使うべく権力とも交渉し……という流れを経て、現在はかなり観光化されつつも生き残っているようです。
明治期で一度途絶えているそれに連続性があるのか。特に、町おこしに使うためかなり猥雑さを排したそれを、明治期まで行われていたものの延長であると言えるのか。という議論もさることながら、観光客のために整理されたそれは、地元の人が猥雑に楽しめるものではもうないのではないか(実際、地元の人は屋台の準備だけして、終わるころに撤収だけする、みたいな「そんなぁ……」みたいな時期もあったそうです)という視点は、初めて知ったので興味深かったです。
フィールドワークはすなわち、「人間っておもしれー!」の話なんだなって
詳細はここに書かなった章もありますが、7つの章をすべて読んで、しみじみと思ったのは、フィールドワークというのは「人間っておもしれー!」という研究なんだな、としみじみと思ったということです。
先述しましたが、ポピュラーカルチャー、すなわち大衆文化をフィールドワークするにあたり、どうあがいてもコミュニティとの接触は避けられません。文化を研究するということは、その文化を構成する人を研究することでもあるわけです。
最近の私の関心事に、「人間っておもしれー!」と「人間の作ったものっておもしれー!」の分岐はどこにあるのだろう?というものがあります。同書を読んで結論が出た、ということは無いんですが、ただ、いち「人間の作ったものっておもしれー!」の人間として、7名の「人間っておもしれー!」の考え方のひとの話を読むことができたのは、貴重な経験でした。
京町家とか、別に町家そのものに関するフィールドワークではないのか?といわれそうなのですが、建築学的な視点、というよりも、「現在~未来にかけて、どのように京町家は残されていくのか」という話だったので、「人間っておもしれー!」の話かなあと思っています。
残念ながら私は「人間っておもしれー!」ではないので、ポピュラーカルチャーのフィールドワークは向いていないだろうなァ、なんて思っています。
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