安易に共感されると人は自分自身でいられなくなる 〜中島みゆき「エレーン」「異国」「空と君のあいだに」に寄せて〜
中島みゆきのアルバム、「生きていてもいいですか」は、彼女のアルバムの中でも、もっとも暗いアルバムと言われます。
このアルバムの中の、最後の2曲、「エレーン」と「異国」についてなんですが。
この2曲には、みゆきの身辺に起こった実話があります。
これについては、みゆきの書いた本、「女歌」に書かれています。
当時みゆきが住んでいたマンションの隣室に、エレンと名乗る外国人娼婦が住んでいました。しかし彼女はある日殺されてしまったのです。
彼女に対する「悼み」の歌がこの2曲です。
興味深いのは、みゆきは、「エレーン」の方で、
と、彼女のことを歌っているわけですが、よく考えてみると、この「おまえ」って、幽霊ということになります。
そして、「異国」で、
というのは、その幽霊の言葉ですよね。
実は、私はこのことに、今紹介した本を読む前に気がついてしまい、戦慄しました。
そして、
「自殺者が増えたら学校や会社の評判の上で困るから」
とか、
「自殺者を出すと治療者自身のナルシシズムが傷いてしまうから」
という次元でのものに実は突き動かされていることが少なくないかと思える
「自殺防止への取り組み」
とかが、何か「汚らわしい」もののようにも思われたのです。
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そして、私は、カウンセラーという人種がいつの間にか発散しやすい、
「似非受容的な空気」
に常に不信の念を抱いている自分のことを思いました。
クライエントさん自身が心の底で感じている「痛み」をまるで真綿でくるんで「麻酔をかけてしまう」ような次元での「受容」の浅薄さを。
クライエントさん自身もすぐにはその痛みにもろに「直面」はできないかもしれない。
でも、他人がそれに単に「麻酔をかける」ような次元での「受容」や「共感的理解」しかしなければ、クライエントさんは「本当の自分」を無視されたとやはりどこかで感じるのではないか。
少なくとも、カウンセリングをはじめる中である種の「被害妄想性」を強めるような人は、実はそのカウンセラーの表面的な「わかったつもり」「理解したつもり」が生み出した「医源性」の被害妄想なのかもしれない。
必要なのは、「相手に理解されている」ということなのではない。
人は、相手が自分のことを「理解していない」とか、「冷たい、拒否的な態度を取られる」ことには、実は結構耐えられるのではないかと思う。
一見「受容的」態度の結果、「自分が自分でいられなくなること」にこそ、人は絶望するのではないか。
だから「ただ、そこにいる」だけの人物は必要なことがある。
その人は、無理にこちらを理解しようとすらしないまま、ただ、自分の中で、相手に共感できる自分と、相手に実は共感できずに違和感すら感じている自分をあるがままにそれぞれacknowkedgeし(認めてあげ)ながら、そこにいる。
ある意味では、自分の中の、相手への「共感できなさ」への敏感さ、そしてそういう「共感できない自分」をありのままにackowledgeできることの方が、相手に「共感しようとすること」より大事なのかもしれない。
相手を「理解できねばならない」というドグマに縛られているからこそ、相手を理解できないと動揺するのではないか。
ある意味で、その人を、より深く理解しようという方向へ導けるのは、その人自身だけであるし、それは、その人の「権利」ではあっても「義務」ではない。
その人がほんとうにそういう「個体化」「個性化」の道をほんとうに歩き出し始めたとたんに、その人への「やさしい心遣い」をむしろ「撤収」し始めるような、そんなカウンセラーは、この世にはたくさんいる。クライエントが自分に取っての「いい子」でなくなると、リビドーの備給を取り下げてしまうのである。
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何かまとまりがつきませんでしたが、
「相手のことを理解できない、共感できない自分」を静かに認めてあげられるカウンセラーをめざしたい」、
と、思った次第。
これは、ひとつの「逆説」です。
> 君の心ががわかると たやすく誓える男に
> なぜ女はついていくのだろう そして泣くのだろう
(「空と君のあいだに」)
この「女」をクライエントさんに、「男」を「カウンセラー」に置き換えてもいいかと。
「ポプラの枝にな」り、「ここにいるよ」だけでほんとうはいいことが少なくない。
でも、「ポプラの枝のように」のみ、人と「共にいる」のは、一番難しいことの一つかもしれない。
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