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夏の思い出の味シソジュース

毎年、夏になると宮崎の祖母がシソジュースを作っていた。
祖母の家で孫たちに振る舞われる夏の飲み物は、濃いシソジュースと薄いカルピスのヘビーローテーション。
「この原液の希釈はおーちょらんって!」と孫6名全員が一口でわかる。
祖母の手作りシソジュースは濃い。

「ばーちゃん、濃い~ばい!飲めたもんじゃねぇって」
孫たちが口々に訴えても、いつもその濃さで出て来る。
カルピスは薄くて(味あるけ?)て思うのに、シソジュースは濃くてノドが渇く、ばーちゃんが出してくる夏の飲み物にストライクなし。

農家根性が染みついた父方の祖母は引退してからもいろいろな農作物を趣味で作っていて、自宅から見て上手にあるのを「カミの畑」下手にあるのを「シモの畑」と呼び、眠る時以外はほとんど、そのどっちかに入り浸っていた。
とてもクールな人で、感情豊かに愛情表現をする人ではなく、農家の性でじっとしてはおれずセカセカと動き回るので、孫と一緒に遊んで一緒に出掛けてタラタラとお話をする、ということは一切なかった。

私は18歳で宮崎を出て関西で働き関西で結婚をしたので、宮崎に里帰りをすることもとくになく子育てに追われていたが、いつ頃からか祖母からの年賀状に「今年は帰って来てください」とのメッセージが添えられるようになった。
祖母の年賀状は印刷された年賀状を買って、宛名だけ書いたものを投函するスタイルで(いかにもクールで祖母らしいな)という賀状だったのに、急に出現した手書きの一文。
それから毎年祖母からの「一言」が添えられるようになり、内容はおおかた「いつ帰りますか?」であった。

ある年は「今年の賀状に写真がないのはどうしたのでせう」と旧仮名遣いで書いてあった。
新年早々の疑問は(私の賀状を見た瞬間にクレーム送ってきよったな…)というほどの早さで関西に届いた。
(写真付き年賀状っていらんのちゃうかァ)と思ってやめてみたが、祖母は写真が要るらしい。

そのうち添え書きは「今年は帰って来られますか?忙しいですか?」とお伺いを立てるような弱々しい文言になり「ことしはドウですか?カヘリますか?」と漢字を使わないカナ交じりで薄い震えた鉛筆文字になり、とうとう「ばーちゃんがいつ帰って来るかと聞いています」と伯母の代筆になった。

家庭を持ち子育てをしていて、だから忙しくて帰れなかった、ということはない。
金銭的には節約をすれば宮崎までの往復の旅費は工面出来た。
私に帰る気さえあれば、いつでも帰れたはずなのに、あの頃の私には祖母の声が届かなかったのである、若い私に聞く耳がなくて。

たまに祖母に電話をすると「関西には何でもあるじゃろうけどたまにはばーちゃんの米も食え」と言ってお米を送ってくれる。
荷物の品名には必ず「靴下」と書いてある。
(こんなにズッシリ重い靴下があるかいっ)と誰もが思うし、靴下じゃないことはバレているはずだが、何故か祖母には米を送る時には品名を靴下と偽る癖があった、靴下が同梱されていたことは一度も無いのに。
戦時中の食糧難を生き延びた大正生まれの祖母の処世術は平成の時代になっても宮崎の田舎ではまかり通っていたようで、いつも品名は訂正されることなくズッシリ重い靴下として関西まで運ばれた。

「ばーちゃん?今日ばーちゃんの闇米が届いたじ?米て書くと捕まるとじゃろ?でーじゃ(ヤバい)ね?」
そんな危険を冒してまで私に闇米を送ってくれてありがとう、と関西から感謝の電話を入れると、たぶん冗談だとは思うが、
「隠して食えよ?誰にも言うなね?」
と祖母が答えるやり取りの茶番が毎回あった。

ばーちゃんが、文を書いてと言っています。
伯母代筆のメモが同梱されていたのが、最後の闇米だったと思う。
私の帰郷を待っていても叶わぬと悟った祖母は、私にフミ(手紙)を書いてと言ってきた。
私以外の孫はみな祖母の近くにいるから毎年会うが、私は祖母から離れて久しいので何年も顔を見ていない、いくら言っても帰ってこない孫。
仕方が無いから筆跡を見るか、祖母、苦肉の策。

私は電話もしたが、ご所望の文をすぐに書いた。
「文を書いて」が「最終手段」なのだと、いやがうえにも心に突き刺さったからである。
祖母はいつでも読み返せるように、文を書かせたかったのだ。
そして数年後、祖母は痴呆症を患った。

「だいぶボケが進んできて、今ならまだ孫の顔もわかるみたいやから、今のうちに会っといたほうがいいよ」
弟に言われやっと私が宮崎に帰って会うと祖母は「これ、誰?」と聞く伯母の質問に「馬丁じゃ」と答えた。

痴呆症は昨日ごはんを食べたかどうかは覚えていないが、昔の記憶はあるので私が孫ということも私の名前もわかる。
けれども祖母の記憶の中にある私は18歳で止まっていた。
30歳を超えている私の顔を孫だとは認識できるのに、祖母には祖母自身の年齢がわからず、目の前の私が18歳で高校生に見えているのだ。
高校を卒業してドコかに行った孫である記憶はあるが、ドコに行ったかの記憶は無い、でもドコからか帰って来てるのはわかるので「今日帰って来たとか?」と毎日聞く祖母に私は「たった今、帰ったよ~」と答える茶番を五日ほどやった。
祖母との茶番の内容がこうも変わってしまうとは。

じつはボケるのがわかってて、正気なウチに会っておきたいと思ったのかも知れない、それでいつからか毎年、賀状で帰郷するように乞うていたのかも知れない、その気持ちを察せられず、長い間、耳なしの孫でいてごめんよ。
そう思いながら毎日「今日たった今帰った孫」を演じて祖母を喜ばせた。
「やっと帰ったか、そうか」と安堵して欲しかったが、私が関西から帰って来ている認識は無く、実家で寝泊まりして翌朝になって祖母に会いに行くと昨日会った私の事はすっかり忘れていた。

ボケてる祖母はとても可愛くて、
「ばーちゃん、かわいい~~~~がっ!」
と言うと目をパチパチさせて私を見る。
「オマエも可愛い。早く良い人見つけて結婚しろ」
「とっくにしてる、て」
「してる?そんなら子供産め」
「とっくに産んだ、て。見せたじゃろ、て」
独身の時に一度帰郷して祖母宅で二日酔いになるほど酒を飲んだ私のことも、長男を産んだ時に帰郷して会わせたことも、祖母の記憶の中には無く、高校卒業後から私はずっと祖母には会っていない孫になっていた。

それから数年後に祖母は骨折して入院し、殆どの時間を眠っているから「もうそう長くはない」と父が言うので、生きている祖母に会うために見舞うと、たまたまその時に祖母が奇跡的に覚醒していて「サヨさん、一緒に遊ぼうか!」とワニワニパニックを持って近づくと「遊ばんっ!帰れっ!」とのたまった。
「サヨさんええか?私が帰るのにはフェリーで一晩かかっとぞ?そんな簡単に帰るかっ」

ボケが進んで私に帰れとしか言わない祖母はそれでも、次の日も、次の日も、起きていた。
私はあんなに祖母の「カヘリますか?」に耳を傾けず無視した孫だったのに、祖母の記憶ではたった2回しか帰郷しなかった薄情な孫が会いに行けば、2回とも必ず起きて迎えてくれた、ボケてても。

「帰れっ!」
「簡単に帰れる距離から来てへんのんじゃ!ワニワニやろ」
「せんっ!帰れっ!!」

最後まで私にずっと「帰れ」と言い続けた人であった祖母が鬼籍に入り、関西で過ごすいつも通りの夏のある日、中山寺の参拝道の店の入り口にあった「シソジュースあります」の貼り紙を見た。
祖母を思い出して懐かしくなりシソジュースを注文すると、サッパリな甘さで爽やかな濃さだった。

(おっと…店で出されるシソジュースの濃さはコレが標準なのか…)

私は改めて祖母のシソジュースはチェイサーが要る濃さであることを知った。
そして同時にその時まで私は「祖母以外のシソジュースを飲んだことがなかった」ことにも気が付いた。

私の夏の飲み物シソジュースは100%祖母製で、ノドが渇く濃さで出してくるほど孫に飲ませたい、よっぽどの自信作だったようである。

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