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書くということの根っこにあるもの

編集者を長く続けている方とお話をしたことがある。
そのときあるベテラン作家さんの話になった。日本を代表する著名な作家で、本もたくさん書かれている。

「自分が書くエネルギーの源は、“怒り”なんだ」と、その方が言っていたそうだ。
その怒りこそが、書くという行為を長年続けさせてきたのだ、と。

「そういうもの、あなたにもありますか」
とその編集者さんは私に聞いた。自分がものを作りだす、書くという行為をさせる、そのおおもとにあるものは、なんなのかと。

かなしさでしょうか。そう答えようかと思ったけれども口ごもってしまって、結局そのままだった。
そして答えられなかった問いについて、ずっと考えている。


なぜ書くのか、には人それぞれいろんな理由があると思う。
だれかに読んでもらいたい、どこまでできるか試したい、人を少しでも幸せにしたい、褒めてもらいたい、単純に書くことが好き、とか、いろいろ。

でもあなたがそう思う、根っこにあるものは何?
そう問われたときに、答えることはむずかしい。自分の奥深く、しずかなところまで分け入って、源泉となる水に手をひたさないといけない。

答えられなかった私に対してその人は、「考えておくといいですよ」と言っていた。
でもそのときふと頭をよぎっていた、「かなしさでしょうか」という返事はずっと体をめぐっている。
ずっと尽きせぬものとして、「かなしさ」がある気がしている。
でも「かなしさ」とはなんなのか、なぜ悲しいのか、考えてもことばが見つからなかった。


太宰治が代表作『斜陽』を書くまえ、小説のモデルとなった愛人の太田静子にあてた手紙のなかで、こう書き送っている。

あなたの日記からヒントを得た長篇を書きはじめるつもりでをります。
最も美(かな)しい記念の小説を書くつもりです。

美しいという言葉に「かなしい」とルビをふっているのが印象的だった。『斜陽』は没落してゆく人々を描く哀切に満ちた、美しい小説。
哀切さは、美しさでもある。

もともと日本語の古語の「かなし」には、「悲」や「哀」だけではなく、「美」や「愛」といった漢字もあてていた。
悲哀だけではなく、愛惜、いとおしむ気持ち、深く心惹かれるさまのことを「かなし」という。

【かなし】
ある対象に対する痛切な思いで、心がかき立てられるさま、を表す。

           小学館全文全訳古語辞典より


奄美・琉球地方では「かな」というのは「愛おしい人」「愛する人」を意味し、これは古語から来るものだと思う。
太宰治の出身である津軽では、「かな」とは一般的に「か弱さ」をさすものらしく(※参照)、痩せてか弱い子どものことを「かなこ」とも呼ぶらしい。なにかこう、はかなさというか、いたいけなものへの哀切な慈しみを感じる。これもひょっとすると古語の名残かもしれない。

「かなし」という言葉は、悲しさ、哀切さ、慯み、憐憫、いとおしい気持ちや、はかなさへ寄せる想い、か弱いものを慈しむ気持ち、美しさや、愛、そういったものすべてに行き渡ってゆく。日本語のことばの豊かさと、その懐の広がりに胸を打たれる。
「かなしさ」は、決して悲哀のことだけではない。


かなしさは流動的で、容易に色を変え、悲哀にも美しさにも、慈愛にもなってゆく。
書くということの根っこにあるのは、かなしさかもしれない。私だけではなく、たくさんの人を見ていてそう思う。
だれかに自分をひらきたいという思い。届けたいという思い。だれかと関わりあいたいという思い。自分の、あるいは他人の、大切なものを大事にしたいという思い。形として残しておきたいという思い。それらはすべて、かなしむ(悲しむ、美しむ、愛しむ)気持ちから来るんじゃないだろうか。

書くということに限らず、人がなにかを創る、歌う、描く、表現する、行動する、そのおおもとにある泉には、こんこんとかなしさが尽きせず湧いているように感じる。

そこにあるだれかの「かなしさ」にふれたときに、心が動くのだと思う。それが“響く”ということだ。
だれかのかなしさは、私の中のかなしさにふれてくる。

書くことの根っこにあるのはかなしさで、書くことの先にあるのは、だれかのかなしさにふれることかもしれない。

かなしさは、それ自体が、かなしさに届くことを望んでいるような気がする。


✴︎

[参考文献]
※太宰治の手紙は昭和22年1月太田静子宛のもの 『太宰治全集 12  書簡』(筑摩書房、1999)から一部を引いています。
※かなしの意味は『角川古語大辞典 第一巻』(角川書店、1982)、『小学館全文全訳古語辞典』(小学館、2004)を参考にしています。


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