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3億人の中国農民工 食いつめものブルース(感想)_拡大する格差にもしぶとく生きる農民工

山田 泰司による著作。2017年11月19日初版の本のため少し情報は古くなっているが、格差による底辺の人々が切り捨てられる様子は、日本でも似たような状況にあると思えたので感想を。

爆買いに参加できない農村部の中国人

本書は、日本人の筆者が20年近くを上海で暮らすうちに知り合った、出稼ぎの人々(農民工とよばれている)にスポットを当て、中国が繁栄している裏で切り捨てられている人々の現実が当人たちへのインタビューを交えつつ紹介されている。

数年前の銀座や秋葉原には、中国人がツアーで訪れて集団で爆買いすることによるインバウンド需要があった。
公共投資や輸出の追い風によって2010年には中国のGDPが世界第二位となり、その恩恵にあやかって底上げされた豊かさの象徴として紹介されていた。これらの人々は富裕層というよりも、いわゆる豊かになった中間層が日本へやって来て買い物をしている印象があり、さぞかし中国は景気が良かったのだろうなと思っていたのだが、本書に登場する人々はそんな爆買いとは無縁な底辺の暮らしをする人たちの話だ。

上海へ出稼ぎにくる人々は主に中国東北部にある安徽省からやって来た人々となるのだが、なぜわざわざ上海へやって来るのかというと、とにかく農業では稼げないという。

おれの年収より上海人の毎月の年金の方が多いんだぜ。子供だって育てなきゃならないのに。
仮に五千元あったとしても、月収じゃなく年収だぜ? 服一枚、靴一足買えないじゃないか」

5千元というのは当時の円換算で8.1万円だという。農家が小麦とトウモコロシを必死になってつくっても年収8.1万円にしかならないというのだ。

そのため父と母とどちらか、もしくは両親共に北京や上海へ出稼ぎに行かないと子どもに義務教育を受けさせることもできない。
すると、農村部には妻と老人と子どもが残されることになり父親は春節の時期にしか故郷へ帰ることができないということになる。残された子どもたちも寂しいだろうが、家族と一緒にいられない親もさも辛いことだろう。

安徽省出身を地図で見ると上海から数百キロは内陸へ離れており、主な移動手段はバスで一日がかりとのこと。

安徽省

では、上海に出てきてどんな仕事に就けるかというと、義務教育すらまともに受けていない人たちにでも就ける仕事は工事現場などの肉体労働かサービス業しかない。そのため月にせいぜい収数万~十数万程度しか稼げないことになる。
対象的に、元から上海に住んでいた人たちは好景気によって不動産価値が上がって億単位の金を手に入れていることもあるのにだ。

元から上海に住む都会人との不平等に耐えて逞しく生きる

農民工の人々は、トイレに仕切りの無いワンルームであったり、取り壊しの決まった廃墟や大部屋にすし詰めの住環境に住み、ギリギリの生活をしながら、稼いだ金を実家へ送ったり子どもの養育費として貯蓄にまわす。
なぜ、そんな生活を続けられるのか。文化大革命の時代を知る世代が親に残っているから当時よりはマシだという考えもあるだろうが、それはきっと次に豊かになるのは自分の番だという希望があったからだと筆者は言う。

かつて「世界の工場」と言われていた中国にはその恩恵にあやかる人がいて、実際に大都市は反映していった。そうして豊かになる人々を見て「いつかは自分も」と希望を持っていれば、苦しくても頑張ることは出来る。現に農民工の人たちから、貧しさや格差に対する愚痴がこぼれることはほとんど無かったという。

しかし、建築ラッシュが終わり中国経済に翳りが出てくると、国が出稼ぎ労働者を大都市から締め出しにかかってくる。
バラックのような違法住居を取り壊したり、不動産価格が上がることで賃貸費用が急に倍以上になったりするというのだ。
締め出される農民工に対して、繁栄にあやかって富を掴んだ都会人の態度は冷たい。むしろ差別的な目線で見ているし、視界にすら入らず気にもとめていない人もいる。

不景気の煽りを受けるのは、いつも底辺の人々から

本書で紹介されている「不景気の煽りを受けて、さらに辛い思いする底辺の人々」と「上海に生まれたおかげで富にありつけた人」という構造を中国の話しだからと他人事に思えないところがある。

「この次に富を掴むのは自分」だと思いきや、経済が好調だというのにぜんぜん暮らしが豊かにならないという構造は、日本にもそのまま当てはまる。
株価が上がって、経済がよくなってきたといわれるのに若者の所得は増えないし、若い頃に非正規雇用であった30~40代に敗者復活のチャンスはない。むしろ格差が拡大していくさまは程度の違いこそあれ、構造としては近い。

また、上海人が肉体労働やサービス業に従事する安徽省の人々を蔑むのも、コンビニやファーストフードや工事現場には外国籍と思われる顔のつくりの人が当たり前にいる日本の状況に近い。日本人が賃金の安さや労働時間の長さから敬遠する仕事に、外国籍の人が集中しているワケだが上海人と農民工のそれと一緒だ。

首都圏の家賃は高く、頑張って低賃金で働くもかつての高度経済成長のように長く会社にいれば給料が上がるというものでも無いので、個人の幸せを考えたら地方からわざわざ都心で働く意味は薄い。
かといって地方も人口減の想定されるところは衰退する一方で、まともな社会保障を受けられるかというと先が見えない。

理解し合うことは出来なくても、他人に優しくすることは出来る

貧しくともたくましく生きる農民工の人々がそろそろ限界を迎えているということで、気分が暗くなりがちな話しが多かったのだが、最後に農民工の人々の中には、貧しくても同じような暮らしをする外国人の筆者に対して優しくしてくれる人々がいるというエピソードで救われる。

中国の春節は一族が集まって祝うイベントだ。離婚して独り身の筆者が春節に行きつけの定食屋へ出かけると店長が店の者へ言い残していた。

「もしあの日本人が大晦日や春節に一人でメシを食いに来たら、あの男のクニの炒飯を出してやれ。大食いだからメシは大盛りで。なにより本場の日本人に日本の炒飯を出すんだから、気合を入れて作るんだぞ」

 と言い残して。

その店の店員たちは寮としてあてがわれた八畳ほどの部屋に八人一組ですし詰めになって住んでいたが、ある日「オレはここに寝泊まりしてるんだよ」とワン店長が見せてくれた店の屋根裏にある彼の住まいは、窓が無く真っ暗で、天井が低いために直立して歩くことすらできない、店員たちの寮よりもむしろひどいような、家とも部屋ともいえないような空間だった。他人のことを考える余裕などなさそうな彼が、自分の家族どころか同じ国の人間でもない、ただ店の常連というだけの日本人に、心を寄せてくれる。

 この年、私の大晦日の孤独を救ってくれたのは、店長だからといって決して暮らし向きがいいわけではなさそうな、中国の農民工だった。

この定食屋で働く人々はサービス業で働く生活に余裕の無い人々だ。周囲には上海に生まれたというだけで、豊かな暮らしをしている人が身近にいることだろう。
ふつうに考えると豊かな暮らしをする上海人が目の前にいたならば、自分の境遇を嘆き、心がやさぐれてしまい、他人のことなどかまっていられなさそうなものだが、似たような境遇にいる異国の中年男性へ親切に出来るというのが温かい気持ちになれる。

しかも過剰に施しをするというわけでもなく、自分たちに無理なく出来る範囲での優しさというのがまたよい。他人のことを理解した気になって施す優しさというのはそれはそれで自尊心を傷つけたりするものだから。

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将来的に人口減少が確定している日本は、今後右肩上がりの成長をし続けるというのは見込みが薄い。そうすると、真っ先に不利益を被るのは底辺の暮らしをしている人々だ。つまり日本でも格差の拡大が加速化していくことは免れないと思われる。

新型コロナウィルスによって、生活スタイルが変わり本当に自分にとって大事なことや新しい価値に気付いた人も大勢いることだし、そろそろ世間一般の人が感じてきた幸せの価値観を転換するときが来ているのかもしれない。
貧しくても他人を思いやれる気持ちを持つというのも、その一つのような気がする。

食いつめものブルース


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