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鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」
083 鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」
動的平衡と統合失調症と関わらせて考察する
セイモア・H・フィッシャーというアメリカの心理学者が『からだの意識』という本のなかで興味深い指摘をしています。彼によると、たとえば風呂に入ったり、シャワーを浴びたりするのが心地いいのは、湯や冷水のような温度差のある液体に身を浸すことによって、皮膚感覚が激しく刺激され、活性化されるからです。普段視覚的には近づきえないじふんの背中の輪郭が、皮膚感覚の活性化によってにわかにくっきりしてくるというのです。つまえい、このことによって〈わたし〉の輪郭が感覚的に補強されるので、じぶんと外部との境界がきわだってきて、じぶんの存在のからちがたしかなものとなり、気持ちが安らいでくるというのです。・・・衣料こそ、ひとが動くたびにその皮膚を擦り、過度に刺激することでひとにじぶんの輪郭を感じさせるもっとも恒常的な装置だからです。・・・ほんとうはからだにやさしすぎる服をひとは求めないものなのです。
私は、高校現代文で読んだ、福岡伸一『動的平衡』に衝撃を受け、大変な影響を受けている。上記の文章を読んだ時にも『動的平衡』の内容と、また、統合失調症(schizophrenia)の病態について考えを馳せた。
あるいは、運動する身体にこだわってきた三宅一生。かれは、身体の運動を残響させるような衣服の構造や、そのいわば継ぎ目ともいうべき衣服と皮膚のあいだの空気ーーこれを「衣服内気候」と呼ぶひともいるーーをデザインしようとしました。
『動的平衡』において、「私たちの存在はここに分子の集合体としてとどまっているに過ぎない」というような考え方だったと思う。(のちに抜粋を残しておこうと思う。)私と世界の境界は果たして明らかであろうか?集合体としてここに淀んでいる存在であると定義してみると、私という存在は曖昧で、時に不安になることもある。だから何かしらの物理的刺激が加わることで外との関係を再確認して、存在を確かめることが必要になる。常に物理的な刺激を皮膚に与えるという重要な役割を担っているのだ。先日私が「外套」に感じた感覚もここにつながっているのだと思った。
統合失調症(schizophrenia)は、自我障害を来すことにその疾患の本質がある。自我意識には、自分が考えている、感じているという「能動性」、自分は1人という「単一性」、時間が経過しても、自分は自分という「同一性」、自分と外界の区別があるという「境界性」という4つの要素があり、これらが障害されると自我障害を来す。このことは、まさに自分と世界との境界がわからなくなっている状態といえるのではないか。統合失調症の人の感覚や体験は「了解不能な」ものとして捉えられるが、自他の境界性というのは、一般に感じられているより曖昧なものであり、そう捉えてみると、統合失調症の体験も想像の余地があるのではないか。
〈際〉という言葉がある。なにかと別のなにかを区別する境界、なにかが別のなにかと触れあうところ、なにかがなにかでなくなる場所のことである。身体と外界との際にかぎらず、〈際〉というのはエネルギーが充満しているところである。たとえば水際。これは植物が生命力をきわだたせている場所だといわれる。・・・〈際〉はまた危険なところでもある、町外れ、場末、国境の街がそうだが、そこはつねにきわどい場所である。
行定勲監督「リバーズ・エッジ」(2018)という映画がある。岡崎京子の同名漫画の実写映画である。この題名も川の端=〈際〉を思い出させる。映画主題歌は岡崎京子の明友、小沢健二が提供している。私の大好きな曲だ。「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」
衣服がぱっくり口を開けているところが、身体の「裂け目や断層や傷口や孔」にとって代わるのだ。・・・タブー視されている身体の秘密の際にますます近づくことによって、身体を侵犯するようにみえてじるは逆にそれを回避する。
〈際〉にはきっと何かがある。
「微妙な差異」が可能にする個性
個人が与えられた社会的条件によって規定されることが少なくなると、個人は他の個人との差異によってじぶんの存在を確定せざるをえなくなるからです。同等の存在という意味での社会の均質化が展開するようになると、個人は他者との差異とか「個性」といったものを強調しないでは、じぶんの存在をじぶんで確証できなくなります。・・・他者とほぼ同じであるということが「だれ」という意味での個人に固有の同一性を不可能にするわけです。このように、ファッションという現象には、ひとびとがたがいに相手の〈鏡〉となって、みずからのセルフ・イメージを微調整しあうという面があります。
この指摘はまさに私が実体験として感じている部分であると思う。
身体に対する意識の変遷
六十年代の波・・・時代とともにこんなにもはげしく変わってきたのかとあらためて思いを深くするのは、身体の感覚と性の意識の変容です。医療技術の驚くべき発達と高密度化は、健康や衛生への意識を高めるとともに、私たちの土着的な身体像を精密機械のような身体へのクールな意識へと置き換えていきました。・・・
身体像がより細分化されて正常と異常をはっきりと見極められるようになってなおされるべき対象としての存在になりつつある。
九十年代はどうでしょうか。(中略)「わたしの身体」というときの人称性がなにかとても希薄になってきているような気がします。(中略)身体の内部というのはわたしたちの意識にとってほとんど外部です。(中略)身体の内部はもはやじぶんのものではないわけです。
CTやX線ー内視鏡検査は外部ともいえるのかもしれないがーを見ていれば、この感覚に襲われる。確かに見ているのはこの人ー或いは私ーの内部であるが完全に外部にあるものなのだ。
なんとなく感じていることを言語化してあってふむふむと読む
こうしたわりきれなさや深い喪失感は、身体を単体の物体(ボディ)としてイメージさせる戦略がわたしたちの社会で推進させられてきたこととも対応しています。・・・また複数の身体の交換そのものであるセックスも、単体としての・・・身体の意識は、ますます、身体の内部でも外部でもない、皮膚という両義的な部位に集中してきているように思えます。
セックスが「複数の身体の交換そのもの」と捉えられてきたことを知った。その通りであり、身体を交換することは相手に意識が向いた状態である。そでは一方でじぶんの身体を自覚することでもある…?
まだ感覚を言葉にうまくできない。
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セックスという形でなくていいから、身体の交換を、ハグや肌の触れ合いが定期的に必要。
顔に色を塗るということは、美しい自然を模倣し、若さと張り合うというような、卑俗で口に出すのも憚られる目的で行われてはならないはずだ。・・・自然を模倣するなどという不毛の機能を・・・
審美性といえば、少女の化粧を抜くものはおそらくないのではないかと思う。だが、<美>と女性の魅力とは別である。<女>であることにおいて、逆に少女は女性のなかでももっとも輝きと妖しさと艶に乏しいものであろう。少女の<美>は充実していて、したがってとりわけ妖しさと艶の条件である揺れや恥じらいや哀しみや諦めやなまめかしさといった、ある二元の対立や矛盾を前提とするような存在の様態に欠ける。どこには、うちに幾重もの層と襞をたたみ込むその<時間>が欠乏している。その存在を不意に反転させる<虚構>が欠如している。わたしたちはいま、そういう<時間>と<虚構>を深く湛えたメイクをこそ必要としているのではないだろうか。
遥かな時間を過ごしてきた人の美しさをみたいと思う。
そして、私自身も美しく年をとりたい。
場所とともに、時間もまた匂いを潜ませている。というか、匂いは記憶と忘却のあいだを漂っている。誰もが知っているように、匂いはなれると消える。・・・つねにすでにあるものへの異和としてしか感知されないということ、これはわたしたちの欲望の寓話でもある。
この欲望にはいったい何が含まれるのだろうか?本文中にはいくつか例の記載がある。敢えて載せずに考えてみたい。自己が自己であると認められたい、という欲望はどうだろうか。あまりに似た人々の中でいれば自分の特徴を見失っていく。しかし、流動的に、異なるものの中に身を置けば、自己を認めることができるのではないだろうか?世の中に対して異和として存在したいという欲望である。
「住めば都」「朱に交われば赤くなる」というように、そこに留まれば、だんだんなじんでくる。それを回避するために私たちは旅に出たり、少し変わったことをしたりしたくなる。
馴染んできたものからはずれていこうとする行為が、モードではないかと私は今のところ理解している。
「モードは〈みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体型〉というぜいたくな逆説をたくらむ」・・・「モードは無秩序に変えられるためにある秩序である」
ロラン・バルトによるファッションのもっともアイロニカル定義
読みたい本/観たい映像
・ロラン・バルト「モードの体系」(佐藤信夫訳、みすず書房、1972年)
・J・ボードリヤール「象徴交換と死」(今村仁司・塚原史訳、ちくま文芸文庫、1992年)
・鷲田清一「モードの迷宮」(ちくま文芸文庫、1997年)
・ヴィム・ヴェンダース「都市とモードのビデオノート」
などなど…
2025.01.09 木 精神科閉鎖病棟で実習中。
2025.01.10 金 更新。鷲田清一「〈ひと〉の現象学」を図書館で借りてきた。