【カミソリ・パンチを持つ男】海老原博幸の生涯
みなさんは、日本人で初めてボクシング・WBCの世界チャンピオンとなり、“カミソリ・パンチ”を武器にKOを量産したボクサー、海老原博幸をご存知でしょうか?
海老原は、同じ階級のファイティング原田や青木勝利とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれ、1960年代の日本ボクシング界を大いに盛り上げました。
また、ゲームやアニメで人気の『ポケットモンスター』に登場する「エビワラー」というポケモンは、海老原博幸がモデルとなっています。
今回は、“最も偉大な日本人ボクサー”ファイティング原田をして「天才」と言わしめた海老原博幸の生涯を解説します。
【金平正紀との出会い】
海老原は1940年(昭和15年)、埼玉県浦和市に生まれました。
まもなく東京都福生市に転居し、警察の世話になるほどのグレた高校生活を送ります。
ある時、海老原は「ボクシング教えます」と書かれたトンカツ屋のアルバイト募集を見つけ、面接に行きました。
トンカツ屋の店主は海老原を見るなり縄跳びをするよう指示し、続いてジャンプやボクシングのジャブをさせました。
海老原の才能に惚れた店主は、すぐさま店を畳み、ボクシングジムを設立しました。
この店主との出会いが、海老原の人生を大きく変えることとなります。
そして、この店主こそが、後に8人の世界チャンピオンを誕生させる金平正紀でした。
金平は、自身もプロボクサーとして5年間活躍し、引退後はマネージャーとして活動するなど、ボクシングと深い関わりがありました。
こうして、馬小屋を改造した質素なジムで、2人は世界チャンピオンを目指していきます。
【フライ級三羽烏】
1959年(昭和34年)に19歳でプロデビューした海老原は6連勝を飾るも、7戦目で判定負けを喫します。
この時の相手は、後に“最も偉大な日本人ボクサー”と称されるファイティング原田でした。
海老原は、原田に敗北後も勝利を重ね、いつからか同階級のファイティング原田、青木勝利とともに「フライ級三羽烏」と呼ばれるようになりました。
1961年(昭和36年)4月、「フライ級三羽烏」の一人で、当時無敗であった青木勝利と対戦し、2RKO勝ちを収めました。
その後も、芳賀勝男やチャチャイ・ラエムファバーなどの強豪を破り、連戦連勝を重ねました。
芳賀は、ローマオリンピックにボクシング日本代表として出場し、後に日本バンタム級チャンピオンに2度輝く逸材で、チャチャイは、当時OBF東洋フライ級チャンピオンで後にWBAとWBCで世界フライ級チャンピオンとなるタイの名ボクサーです。
【“カミソリ・パンチ”】
海老原は、天性のリズムと絶妙のタイミングで左ストレートを放ち、KOの山を築きました。
殺傷力抜群で切れ味鋭い左ストレートは、いつからか“カミソリ・パンチ”と呼ばれるようになりました。
1963年(昭和38年)9月、海老原は世界フライ級チャンピオン、ポーン・キングピッチに挑戦します。
ポーンは、日本人初の世界チャンピオン・白井義男が1度も勝てなかったパスカル・ペレスに勝利してタイ人初のボクシング世界チャンピオンとなり、海老原が唯一黒星を喫したファイティング原田にも勝利している超強豪ボクサーです。
この試合で挑戦者の海老原は果敢に攻めました。
1Rも半分ほどが過ぎたころ、海老原が自慢の左をチャンピオンにヒットさせ、ダウンを奪います。
なんとか立ち上がったポーンに対し、海老原は容赦なくラッシュを仕掛け、得意の左で2度目のダウンを奪います。
大の字に倒れたポーンは立ち上がることができません。
海老原は、圧巻の1RKO勝ちで世界王座を獲得しました。
日本人ボクサーが世界タイトルマッチで1RKO勝ちを果たしたのは、海老原が初めてとなります。
この一戦をジャッジとして見守った『リングマガジン』創設者、ナット・フライシャーは「フライ級ボクサーのパンチとは思えない」という言葉を残しています。
デビュー7戦目で原田に負けてから1963年11月までの間、海老原は29連勝(1引分挟む)を記録しました。
1964年1月、敵地タイ・バンコクにて、前チャンピオン、ポーン・キングピッチとリマッチを行いました。
この試合は接戦となりましたが、判定2-1でポーンに軍配が上がりました。
海老原は初防衛戦で王座陥落となりました。
【王座奪還】
ベルトを失った海老原は、後にWBC世界フライ級チャンピオンとなるアラクラン・トーレスやOBF東洋フライ級王座を10度防衛する中村剛といった強豪選手を次々破り、1966年(昭和41年)7月、WBA・WBC世界フライ級チャンピオンのオラシオ・アカバリョに挑戦します。
しかし、海老原は試合中に左の拳を骨折し、判定負けを喫しました。
1967年8月に再度アカバリョの王座に挑戦しますが、またも試合中に拳を骨折し、判定負けとなりました。
抜群のパンチ力を誇っていた海老原はその強打ゆえに、ハードパンチャーの宿命とも言える拳の骨折を幾度となく経験しました。
1969年(昭和44年)3月、海老原はブラジルのホセ・セベリノとWBA世界フライ級王座決定戦を行いました。
この時、世界ランキングでは海老原が2位でセベリノが1位でした。
海老原が格上に挑む構図となりましたが、キャリアと技術では海老原がセベリノを圧倒しており、試合は終始海老原が優勢に進めました。
そして15R判定3-0により海老原が勝利し、2度目となる世界王座獲得を果たしました。
海老原は試合前に右拳を負傷しており、麻酔を打ってこの試合に臨んでいました。
また、試合中には左拳を負傷しましたがそれでも構わずパンチを繰り出し、まさに執念で勝利をもぎ取りました。
【日本人フライ級最強ボクサー】
王座に返り咲いた7か月後、海老原はフィリピンのバーナベ・ビラカンポを相手に初防衛戦を行います。
序盤は両者互角の展開となりましたが、第10Rに海老原はビラカンポの強打でダウン寸前まで追い詰められます。
盛り返せぬまま試合が終了し、海老原は判定0-3で敗北しました。
この試合でも海老原は右拳を骨折しました。
またも初防衛戦でタイトルを失った海老原は、この試合を最後に、1970年(昭和45年)1月、現役を引退しました。
海老原博幸、戦績68戦62勝5敗1分。
世界戦を除けば60勝1敗1分という圧倒的な戦績を誇りました。
軽量級ながら生涯で33KOを記録し、数多くの世界チャンピオンを育てた金平も「最もパンチがあったのは海老原だ」と語りました。
また、世界フライ級チャンピオンとなったサルバトーレ・ブルニの陣営が海老原の強打を警戒し、対戦を頑なに拒んだという逸話も残っています。
海老原は、試合中に拳を骨折してもフルラウンド戦い抜く強靭な精神力を持ち、デビュー7戦目で敗北した原田戦以外では一度もダウンを喫しておらず、タフなハードパンチャーでした。
“カミソリ・パンチ”と称される強打、鋼の精神力、そしてタフネスを兼ね備えていた海老原は、今でも「日本人フライ級最強ボクサー」の筆頭に名前が挙がります。
【飲酒と死】
引退後の海老原はジムのトレーナーやボクシング解説者などを務めました。
しかし、過度の飲酒で肝臓を患った海老原は、1991年(平成3年)4月、51歳の若さでこの世を去りました。
海老原はボクシング界でもトップクラスの大酒飲みだったと言われています。
かつて海老原と拳を交えたファイティング原田は、「俺は親の葬式でも泣かなかったが、海老原が死んだ時は泣きまくった」と悲しみに暮れました。
不屈の精神でボクシング界を駆け抜けた海老原はジャンルを超えた存在となり、『ポケットモンスター』に登場する「エビワラー」というポケモンのモデルにもなりました。
以上、持ち前の強打で戦後のボクシング界を沸かし、数々の名勝負を繰り広げたボクサー、海老原博幸の生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇