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【5分で読める小説】この欲を、抑えられなかった。

 「私を安心させるものと、私を不安心にさせるもの、夏の終わり」


知世きいろ


 上野公園の喫煙スペースには、あまりにも多くの人がいる。

私は、喫煙スペースから少し離れたところにある、向かいのベンチに座っていた。

上野公園の木々は、まるで私たちの足りない部分を埋めるように、都市の合間を縫って生えている。人々は、楽しそうに通りを歩いていた。


 成田さんが、気だるさの中で笑って、私の方に戻ってくる。

歩きながら、水色の小さなタバコの箱を、ズボンのポケットにしまった。

成田さんが、こっちに近づいてくるにつれて、

ゆったりとした服が、成田さんの身体に合わせて揺られて発するタバコの匂いが、強くなってくる。

混濁としたものの中に、奥に少しだけ甘さがあるような、成田さんにつくタバコの匂いが、私は好きだ。

私は座ったまま顔だけ上を向いて、成田さんと目を合わせた。

 「お待たせ」と言って、軽やかに笑う。
私の横にひとり分のスペースを開けて、座った。

私が成田さんのほうを見ると、目元や頬にうっすらと皺をよせて、くしゃっとした微笑みを向けてくる。

そしていつものように、私も釣られて、不覚にも笑顔を浮かべてしまうのだった。

成田さんの笑顔は、不思議だ。
それは、私の胸を高鳴らせるのと同時に、私を深いところまで、安心させるものだった。

成田さんの笑顔とシワとタバコの匂いは、互いが互いに絡み合って、素敵さをずっと増している。

 髪の毛が、頬に少し被さって、うっとうしそうに顔を振った。成田さんが、夏にかけたパーマは、今はずっと緩くなっていた。


 「大丈夫ですよ」

 黒色の、薄手のプルオーバーから出た、ゴツゴツとした手指。
成田さんは、多分、いつも左腕に同じチェーンブレスレッドをつけている。

シルバーの大きめのそれが、要所要所で、骨が出っ張っている成田さんの腕と、よく似合っているな、と思う。

それはシルバーというより、チタンに近いような、重みのある輝きをしていた。その輝きは、成田さんの年齢だから、きっと似合うんだと思った。

成田さんは、ほっと一息つくみたいに、
私たちの前を次々に通る子供や、歩道沿いに植えられた遠くの木々を見つめている。
あれが綺麗とか、これは良いとか、私に色々なことを話した。


 最近顎に揃えて切った、私の髪の毛を見てから、成田さんは、「こっちの方が、ずっと似合ってる」と言った。

少しだけ口角を上げて、私の目を見て話す。
私は照れて目を逸らしてしまうのに、それを見て、成田さんは今度ははっきりとした笑顔を作ってくる。

私はまたどんどん成田さんに惚れ込んでしまいそうだ、と思った。
私は、落ち着こうとして、目の前の景色に集中した。

道には、先ほどと何ら変わらず、人が歩いていた。

昨日や一昨日と同じだ。
雲も鳥も、決められた速度を守るように、きっかりと動いている。

 私たちの間に開けられた、ベンチのスペースが、少し悲しい目をして、私を見つめた。
それは、手を触れると、身体の奥まで届くような冷たさをした。


 成田さんのおうちに行きたい、と言ったけれど、

成田さんはひとりでにゆっくりと、控え目に笑ってから、少し落ち着こうとするみたいに、組む足を変えた。

それから、秋になるね、とどうでもいいことを、話し始める。

成田さんは、どこを見ているのか分からない、多分、何も見ていなかった。

その後、少し置いて、成田さんは、空のほうを見ながら、
どこまでも優しい笑顔をした。成田さんはなにも言ってくれない。

ただ余裕のある、優しい笑顔をしてくるだけだった。


私は、成田さんが許せなくて、私の中で、感情が、急激に昂っていってしまう。

成田さんが、許せないのに、
私は上手い言葉がどこにも見つけられなくて、言葉が出なくて、口以外の私の身体が全て昂って、
成田さんのほうに、上半身を乗り出して、成田さんの胸に、
とうとう、入り込んでしまった。

我慢できなかった。人の体温が、急に感じられる。

温かくて、私を包んでくれているみたいだった。

私の好きな、成田さんに染み付いた、成田さんに特有の匂いが、しっかりと感じられると、
私の身体は、満足するみたいに、内部から小さく震えだした。
私は、自然と涙が出てしまう。

ミニスカートと、ロングブーツの間の、私の空間の皮膚が、アルミのベンチに刺さって、私の身体を、そこから徐々に腐らせていく。

ああ、冷たい。

成田さん、困った顔しているんだろうな、と思いながらも、今更やめることができなくて、どうすることもできなくて、

成田さんの胸の中で、やっと私は私をおさめようとすることしかできなかった。

成田さんは、何も言わないし、何もしなかった。
成田さんからは、私に少しも触れなかった。


 帰り際、成田さんのことが好きですと、伝えた。

平日、十八時半の上野の裏路地には、ちらほらとしか人がいない。

成田さんは、ただいつものように私に、笑ってみせて、下を向くだけだった。

気をつけて帰るんだよって、口と目に、しっかりと微笑みを浮かべて、私より高い背を少しだけ屈めて、私と目線を合わせてから、そう言った。

ななめ上に、上野駅が見えた。


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