石舞台古墳・明日香村に遺されたもの④
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次に向かったのは「石舞台古墳」ですが、奈良県道155線沿いの駐車場に車を停め、そこから石舞台までの途中にある「農村レストラン 夢市茶屋」に立ち寄り昼食を摂りました。
実はそれまでがなかなか中身が濃かったので、お腹はペコペコで、すぐにがっついてしまったため、例によって例のごとく、料理写真を撮り忘れましたが、たしか夫は「黒米カレー」、私は「古代米御前」を食べました。
最大級の石室古墳
「石舞台」は、明日香のランドマークと言える日本で最大級の横穴式石室墳です。
このシリーズの冒頭でも少し触れましたが、今回、約半世紀ぶりに訪れてみると、その迫力に再度驚かされました。
巨石をどうやって積み上げた?
築造は6~7世紀と推定されていますが、30数個以上の大小さまざまな花崗岩を積み上げた大変丈夫な作りになっていて、機器もないこの時代にいったいどうやって積み上げたのか不思議で仕方がありません
やはり後世の城の石垣のように、筏を使ってある程度は川で運び、陸上では数本の転子といわれる丸太棒を並べてその上を転がせながら運んだのが一番妥当な方法でしょう。
今でこそ原始的と思えますが、少なくとも1,400年も前だったことを思うと、基本的に人力だったとはいえ、このような巨石を運搬するとは、当時すでに高い土木技術があった事が伺え、今更ながら感心してしまいます。
石舞台で最大なのは天井石で、南側(手前)が約77t、北側(奥)が約64tもあるといいます。(下図右の石室内)
やはり上に最重量の石を置くことで安定を保つことはできるのでしょうが、問題はどうやって上に置いたのか?
やはりこれも縄で括って吊るし、滑車を使って上にあげたのでしょうか?
イヤ、この時代に滑車がそもそもあったのでしょうか?
そのうちどこかで何かのついでに知る日が来るかもしれませんが、眺めているだけで妄想は尽きません。
不思議なことに石室内から石棺は発見されず、平らに加工された凝灰岩の破片のみが見つかりました。
そこから推測される飛鳥時代の石棺を復元して片隅に展示されていました。
悠久の歴史と古代人の息吹
それにしても、大人になってから見ても、このスケールには目を見張ります。
そりゃ当時8歳の私には、大き過ぎて不気味に映り、中へ入ることもできなかったのは仕方のないことだと納得しました。
今でこそ、躊躇いながらも入る事は出来ましたが、不気味であることには変わりなく、中に入って内側からぐるりと見渡した石積みの様子に、1,400年というとてつもない年月の悠久さを感じ、その重みに鳥肌が立つような感動を憶えました。
元々、この上には盛土がされていたはずで、いつしか覆っていた土が無くなって、このように石室が露わになったとみられています。
それはいつ頃からか定かではありませんか、意外と古くからむき出し状態だったようで、江戸時代中期の国学者・医師の本居宣長による「管笠日記」によると明和9年(1772)の時点で、今と同じ状態であったことが記されており、当時からすでに観光名所だったそうです。
被葬者は蘇我馬子か⁉
「古墳」というからには、かつては盛土があり墳丘になっていたのは明らかです。
発掘調査によると一辺が約55mの方形だったようですが、上部も同じような方形だったのか、または円形で上円下方墳だった可能性もあり、全体像はまだ特定できていません。
さらにはその周りには空堀と堤が巡らされているのを見ると、被葬者はかなり身分の高い者であることがわかります。
この近くに蘇我馬子の邸宅跡があることから、今のところ彼の墓だとういうのが最有力説です。
(その父、稲目だという説もある)
石室の上の盛土が無くなっているのも、馬子ふ横暴な行いに反発して後世の人たちが故意に取り除いたという説もあるようです。
蘇我氏の独占政治
蘇我氏の直系の系図は以下の通りです。
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蘇我稲目
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蘇我馬子
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蘇我蝦夷
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蘇我入鹿
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そして馬子といえば、聖徳太子とともに推古天皇を支えた時の最高権力者であり、以前、四天王寺を訪れた記事でも触れましたが、
用明2年(587)、太子とともに挙兵し物部守屋を滅ぼした「丁未の乱」を起こした人物の一人でもあります。
☝アハ体験5
この「丁未の乱」では馬子は正義の味方っぽい存在なのですが、実は聖徳太子の死後(622年以降)、まるでタガが外れたように横暴になったらしい。
そもそも「仏教の否定派VS肯定派」だったこの乱の正義はいったいどこにあったのだろう?
歴史とは勝者のものなので、この時に物部氏が勝っていたら、仏教は日本にまだ無く、まったく違う日本史が出来上がっていたのかも。
そして何より蘇我氏は、天皇家と親戚縁者になるために娘や姉、妹を入内させ、政略結婚を繰り返すことで、その権力を維持しながら大きくなったのです。
あれ?これって、大河で活躍中の藤原氏と同じじゃないですか。
そして、馬子の孫にあたる入鹿が645年の「大化の改新」で天智天皇と藤原氏(中臣)に敗れ、以後は藤原不比等により藤原氏の権力地盤が固められたのですから、権力の移り変わりにはめまぐるしいものがあります。
大化の改新には裏事情あり?
実は「大化の改新」で蝦夷と入鹿という直系宗家は滅ぼされるのですが、別家は脈々と続き、天皇家と縁戚関係を結び続けて皇族に蘇我氏の血は受け継がれていき、依然として名家として残っていました。
しかし「大化の改新」を起こした中大兄皇子(天智天皇)は蘇我氏の血は受け継いでおらず、その事が関係あったのかどうかはわかりませんが、当時の古代人は意外と血族を尊重していたのかもしれません。
さらに、蘇我氏は渡来人だったという説もあり、当時の日本人に差別意識はなく、それどころか尊敬していたとしても、まったく血脈の違う他民族だという認識はあったのではないのでしょうか。
歴史を変えた大事件・大化の改新にそんな裏事情もあったと妄想すると、当時の天智天皇と中臣(藤原)鎌足の意図にまた違うものを感じてしまいます。
とはいえ、この後の代の不比等は蘇我氏から妻を娶っていて、一番栄えた道長に代表される北家にもちゃんと蘇我氏の血が引き継がれていると思うと、なんだかそれにも皮肉さを感じずにはいられません。
蘇我氏と藤原氏の違い
さて、時の権力者としての地位を藤原氏が取って代わったわけですが、この二氏はどちらも天皇家と常に政略結婚を通じて縁戚を結びながら権力を保持した事に変わりはありません。
同じように天皇家に仕える家でありながら、両家の大きな違いとしては、
・蘇我氏は独立した豪族
・藤原氏は朝廷内の官僚
立場や役割に基本的なところで差がありました。
だとしたら、朝廷から独立した権力を持つ蘇我氏は、その気さえあれば天皇に代わって日本全体を治めることもできたのかもしれません。
しかしそういう前例を作ってしまうと、その後に現れる歴代の権力者たちも次々に天皇家に取って代わり、今ごろ日本は日本という名さえ残せていなかったかもしれません。
不思議なことに、あの魔王の織田信長でさえ、自分を神として祀らせたにもかかわらず、天皇に取って代わろういう発想すらなかったのは、日本人がずっと無意識に守り続けた当然の規則かあったのでしょう。
これは他国民から見れば理解に苦しむほどの不思議現象といえ、もし、この時に蘇我氏が前例を作っていたとしたら、天皇家はとっくに無くなっていたかもしれないのです。
※記事内の画像は2024年7月26日に現地にて撮影したものです。
【参考】
・いかす・なら
・飛鳥歴史公園
・なら旅ネット
・蘇我氏―古代豪族の興亡 倉本 一宏 (著)
=明日香村に遺されたものシリーズ=
①日本史の始まりの地
②高松塚壁画館
③キトラ古墳~「四神の館」
⑤聖徳太子誕生の地「橘寺」
⑥日本初の本格寺院「飛鳥寺」
⑦ご本尊は最古最大の塑像「岡寺」