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翡翠の窓4
◯水曜日のマダム節子◯
「ちょいとそこのお嬢さーん」
お嬢さんというには一回りは多い自分の年齢を自覚しているのに、その涼しげな声に思わず立ち止まってしまった。
飲み屋以外は閉まり、照明だけが煌々とした尾道のアーケード街を、今夜はどこに泊まろう…と路頭に迷っているタイミングで。
恐る恐る振り返ると、商店街の2階の窓からひらひらと手を振る竹久夢二風のご婦人が目に入って、
「マズイ」
と直感した。そのご婦人がちょいちょいと手招きしてきたので階下に目をやると、階段の脇に一刀彫りの『マダム節子の店』という看板を見つけてしまったので更に事態は深刻である。
はぁ…人生には避け難き出会いというのがあるものだ。
その日は私の初めての尾道だった。移住を心に決め、一日中物件を見て回った後で、ほぼ放心して歩いていたのでマダムも見かねたのかも知れない。
古いビルの狭くて急な階段の先に、涼しげな琉球ガラスの花器が吊られ小さな蓮の葉と白いアヤメが生けられている。店内は畳敷きのカウンターだけの狭い空間に間接照明が焚かれ、まるで高級な遊びを知る紳士になった気分だ。
まったく場違いな旅行者の私が入り口で逡巡していると、マダムは自分の目の前にお水を置いて私を目で呼び寄せた。幸い私以外にお客人は誰も居なかった。
「あのぅ…どうして私は呼ばれたのでしょうか」
「まぁまぁ。今日はお店もこんなだし、
少し付き合って下さいな。」
そう言うとマダムはしっかりと冷えた華奢なグラスにビールを注ぎ、カンパーイ♪と楽しそうに私に差し出した。何が何やら…と思いながらも、私はその冷えたグラスの誘惑に素直に折れて、イッキにビールを飲み干した。
「プハーーーー美味しい〜〜ッ」
マダムはコロコロ笑いながら、突き出しに小アジとパプリカの南蛮漬けを出してくれた。
「!!!」
カリカリに揚げられた小アジに柔らかい酸味、少し檸檬…なんとも爽やかで夏らしく今まで食べたどの南蛮漬けより美味しかった。ビールが進む。
お酒は強い方じゃないけど大好きだ。疲労と妙な高揚感で口元も滑らかになり、尾道への移住の事、今日は物件探しだった事、地元が静岡である事など、訊かれるがままにつらつらと話していると、唐突にマダムの視線が強くなったのを感じて顔を上げた。
「で、お嬢さん。忘れられない人がいるの?」
グラスを落としそうになった。
「なんで…そう思うんですか…?」
マダムは悪戯っぽい顔で、メニューの一番左端を指差した。
『占いあり〼』
マズイという直感はいつでも正しい。
そして多分、マダムには一生敵わない。
研究室の湿っぽい空気が、今でも鼻先で匂うようだ。『先生』はいつも窓際の、校内の木々がよく見える机で作業していた。白髪混じりの髪、スッと伸びた背筋、柔らかな口調。先生が話す言葉が私はとても好きだった。
意識が10数年前に飛んでいた私の視線の先に、マダムがそっとしらすのタルティーヌを置く。私が話し出すのを、いや、話し出さなくても私がどうするか決めるのをゆったりと待っているようだ。
「大学の恩師が少し変わった人で…よく『歴史に答えがある』と言って、自分の考えよりも偉人の言葉を持ち出して説明をしてくれました。それで卒論で行き詰まった時にもダヴィンチの言葉を言われたんですが。」
ビールをひと口、口にして
先生の言葉をなるべく正確に思い出す。
「『どこか遠くに行きなさい。仕事が小さく見えてきて、もっと全体がよく眺められるようになります。』」
マダムがグラスにビールを注いでくれる。
「でも私良く分かってなくて。先生に何処へ行ったらいいんでしょう?って。ハハ…今思えばそう言う事じゃないんですけどね。そしたら『尾道なんていいんじゃないですかねえ。私の故郷なんですが、とても美しい所ですよ。』って。」
「それでいま、尾道に?」
「ハイ…。」
マダムは、大人になった私が、
今度は何に行き詰まったかは聞かなかった。
そっと手を添えてタルティーヌを勧めてくれる。
「…!!ナニコレ美味しい!」
マダムはまたコロコロ笑って
「でしょう〜〜サーくんのパンは最高なのよ♡」
ガーリックオイルが染み染みのバゲットにバジルの香り。一つには釜揚げしらすと削りたてのチーズ、一つには生しらすと賽の目切りのトマトが載っているが、何よりバゲットが具に負けていない。
「ンフフ、良い顔になったわね。
良かったらコレ、あげる」
カウンターの下から取り出されたのは、
かわいいサイズの角食だった。
数週間後、移住先の片付けもだいぶ落ち着き、私がモーニング専門店を始める報告に行くと、マダムは含み笑いをして私のお陰ね〜とコロコロ笑った。
まったく、マダムには敵わない。
ちなみにマダムから頂いたお祝いが最高に素敵だった。京都金網つじのパン焼き網。さすがに炭火は使えないけれど、ガスでもパンがもっちりサクッと焼き上がる。
マダムに頭の上がらない、温かな日々は続く。